meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

理想的なビジネスメールとか書いてると、コミュニケーション不全になりそうな気がする。

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 したっぱパートなので、文章を書く機会がそれほど多いわけでもないのですけども、それでもちらほらとメールなどを書いております。kimuraです。どうもこんにちは。今日も暑いですな。
 今日はタイトルの通り、なんとなく感じているビジネスコミュニケーション的な何かへの違和感について考えています。要は、端的に、わかりやすく、合理的に、伝わる文を求めていくと、情緒がなくなるという話になる予定です。先に結論をまとめますと、

1)ビジネスは正確さ、わかりやすさを求める
2)そのためには決まった型、様式が必要になる
3)その型に染まると、外れられなくなる気がする
4)枠コミュニケーションより、軸コミュニケーションが好き

という感じだと思います。ここまで書いて、やっぱりわたしはビジネスな文って苦手だなと再認識いたしました。(;・∀・)

 

正確さとわかりやすさを追求すると「型」が硬くなる

 ビジネスには正確さとわかりやすさの両方が求められる。このことに異議を唱える人はあんまりいないと思います。なぜだかみんな、これが前提だと思っている。そういうところに、結構危険な香りが漂っていたりするんですよね。今回もその類です。
 確かに、仕事をする上で、正確さとわかりやすさは大事です。Aという要件をそのままの形で相手に伝えなければならない、という事情があります。「資料を20部コピーして、11時に二階の会議室まで持ってきてください」ってな感じで、いつ、どこで、だれが、なにを、、、といった5W1Hを意識しながらコミュニケーションしないと、とんでもない誤解を生むことも。相手に期待する作業をしてもらうには、相手に正確に伝えなければならない。これがビジネスの現場だと、誰かが言っているような気がしますし、たしかにそうだよなと納得もしてしまいます。
 正確さばかりではなくて、わかりやすさも必要です。正確に伝えるためには、相手が受け取れる形に加工してあげなければなりません。吸収しやすくする。正露丸をそのまま飲ませるんじゃなくて、糖衣にして苦味でウゲェってならないようにする。それがわかりやすさです。必要に応じて、丁寧に説明したり、メッセージを削ったりします。これもできないといけない。受け取るメッセージの解読に1時間もかかった、なんてことじゃあ仕事はできませぬ。

 さて、この正確さとわかりやすさを突き詰めていくとどうなるかな、なんてことを考えてみましょう。別に突き詰める必要は全くないのですが、それだと話が終わってしまうので突き詰めてみます。わたしはその先に「記号化」が待っているような気がしてなりませぬ。
 キャッチャーがピッチャーに次はカーブを投げろと指示するように、ある種の型とか様式とかサインとか記号ができてくる。旦那さんが帰ってきて、右手を上げたらまずはお風呂に入りたいってことなのね、的な、そんな形になってくるのではないかと思うのです。
 なぜなら、それが最も端的でわかりやすく、正確だから。そこには口元にタバコをもっていけば誰かがライターを差し出して火をつけてくれる。そんな気持ちよさがあるかもしれません。つまり、ある一定の型が出来上がってしまい、その型を実行するだけで正確に伝わるようなコミュニケーションが成立してしまう。誤解がなくて心地よい世界です。

 

ルールに従っていればいい、は楽である

 そういった「わん」といえば「にゃー」みたいな(?)、言葉と行動がダイレクトに結びついてセットになってしまった状態になると、ものごとはとても簡単に進みます。いわば、ルールやレールに乗っかった世界です。
 その世界はものすごく楽です。イレギュラーが起こりません。誤解もない。プログラムが指示通り完璧にこなすのと同じです。コンビニの店員さんとかがそんな雰囲気を醸し出しています。型にはまってしまえば、誰でもできる。誰とでも通じ合えてしまいます。そして、この様式に慣れてしまうと、もうその枠の中に安住してしまうのです。自分で解釈をする手間も要りませんし、誤解してしまって怒られることもないですから。

 はい、もうお分かりの通り、仕事がデキる人がそんなコミュニケーションをするとは思えませんね。それはうまく仕事がデキない系の人がとるコミュニケーションです。要件だけ伝えて終わり、なんて、そんなことでは人は動きませぬ。ビジネス的に理想と思われているコミュニケーションは、実はぜんぜんよくないコミュニケーションなのではないか。そんな疑問まで出てきました。

 

かたい枠で伝えるより、やわい軸で伝えたい

 こんな問題に対して、わたしはなるべくなら「枠」じゃなくて「軸」を伝えようとするコミュニケーションの方がいいなぁ、などと考えています。つまり、何と何とを何時までにしてください、ではなくて、こんなことがしたい、をメインに持ってくるコミュニケーションです。もちろん、この場合には作業の正確性はある程度犠牲にされます。見捨てます。
 これは、向かうべき方向や目的とかイメージをぼやっと伝えて、あとはどう組み立てるか考えていいよ、ということです。中身は詰まってる感じで、外側は緩やかで曖昧。なので工夫をしなければならないし、解釈の余地も残されています。こういった投げかけだと、たとえば、今日メールした方がいいか、明日メールした方がいいか、考えなくてはなりませぬ。結局、指示を出した側のイメージと違うすすめ方になったりして、それはそれで困るのかもしれません。けども、誤解を前提にコミュニケーションがなされているような、寛容な態度、ある意味では大雑把な姿勢もあるのだと思います。

 そもそも、コミュニケーションは誤解を前提としたものです。誤解が生まれるようにしてあるから、双方が努力し、歩み寄ろうとする。それが本質でしょう。それなのに、無理して正確にわかりやすく伝えて誤解をなくそうとするので、必然的にコンテナに詰め込んで標準化するようなことをしなくてはならなくなるのです。そしてそして、行き過ぎたコンテナは固くなって、箱入りをつくり出します。
 ま、こういうのはバランスの問題ですが、たまには「なんとなくそんな感じで!」というビジネス的には最もよくないコミュニケーションもいいのではないかなと思います。「そんな感じって、どんな感じだ???」から頭が動きはじめて、イメージを形づくっていきます。出来合いのコンテナには頼らない、獣道への歩み出しが、実はコミュニケーションのエクササイズになっているんじゃないかと、そんなふうにも思うのでした。

 

m(_ _)m

 

 

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