meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

等価交換という考え方を捨ててみたらどうか、と言いたかったけど失敗した。

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 「等価交換」ってのに違和感がある。そんな話を自分なりに書いてみたのですが、最終的にどうもロジックが通りませんでした。なにかおかしい。うまくいかない。ぬーん、ぬーん。そんなわけで昨日の更新はあきらめたのでした。
 そして、書いた記事はボツ原稿になります。ん、でもでも。ボツ原稿にしとくのも勿体ないもんです。そんならそいつを肴に、もういっちょ捏ねてみようというのが今日のお話です。どこに欠陥があったのかを示して、晒す。それもまた振り返りと呼ぶ行為なのかもしれませぬ。

 

ボツ原稿で言いたかったことはなにか。

 まずはボツになった原稿の流れをまとめてみます。
 (1)交換には3つのパターンがあって、みんなは等価交換を理想としている。(2)しかし、この3つのパターンを意識して等価交換を目指すと交換は減速(縮小)してしまう。(3)実は他の捉え方があって、その捉え方からみると交換が加速されるパターンが見えてくる。(4)交換量が増大するようなパターンを目指した方がいいなぁ。(それは等価交換ではない)
 と、そんな感じの話でした。下のような図も用意してたのです。なかなか気合いを入れてつくっていたと、自分のことながら思います。うるうる。

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 わかりにくい部分もあるので解説を加えておきます。「等価交換を目指すと交換は減速する」のはなぜかというと、だいたいみんな、自分が出した価値より受け取った価値の方が低いと見積もるからです。この傾向は「こんなに働いて、こんだけしか給料ねーのかよ」というフレーズに象徴的にあらわれます。価値の高低は両者が行うものなので、基本的に自分贔屓に考えちゃう。そんな想定です。
 そこをベースに考えると、等価交換を目指す人々は、受け取る価値に見合った価値を提供しようとします。すると相手もさらに低い価値を交換に出してきますね。下へ下へと向かうスパイラルの完成です。
 交換相手に、価値がすくねーよ、と不服を申し立ててもいいのですが、この交渉も最終的には同じ結果にたどり着きます。等価になったと満足したところで、時が経てば自分贔屓になってくることが予想できるからです。というわけで、等価交換は交換を減速させます。

 そこで、交換が減速しないようなあり方とはどういうことかを考えたところ、次の図が出てくるのでした。(これも図を用意していたのよ〜)

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 等価交換を目指すとどちらも不満だから、どちらも「貰い過ぎ」状態を作り出せばいいのではないか、というような話です。貰い過ぎてるから返さなきゃ、とお互いが思うことによって、交換は続き、交換量も増えていくのではないかと。いや、なかなかにお恥ずかしい話ですね。

 

どこに論理的破綻があったのか。

 もうお分かりの通り、少なくとも2つの点でこの展開はおかしいのです。ひとつは、「貰い過ぎたから返そう」という姿勢そのものが等価交換を目指しているから起こるものだということ。返そう欲求が強まることで交換は加速するのですけども、その欲求の前提が「交換は等価でなくてはならない」なのです。これでは等価交換への異議にはなりません。
 そしてもうひとつは、「人は自分贔屓に考える」という前提を、なぜか「お互い貰い過ぎ状態」では外して考えてしまっていることです。いくら自分贔屓に見積もったって、こりゃあ貰い過ぎだよなぁ、ってなぐらいの交換を想定していたのでしょうか、わたしは。(;・∀・)
 「お互い貰い過ぎ状態」を理想とするならば、実はこの「自分贔屓前提」をどうやって崩すかにピントを合わせなければならないのでした。でも、わたし、その問題に対しては何も発想をもっていないのです。残念。

 

「よくわからない何か」が交換されていると言いたかった。

 でも、本当に言いたかったのは、価値の交換とかじゃないのでした。たぶんどうやっても見積もれない「よくわからない何か」が交換されていて、それはよくわからないからこそ返すこともできなくて、よくわからないからこそ自分で解釈しなければならなくて、だからズレたり、膨らんだり、しぼんだりしながら変化していくし、新しいものを生み出すのだよ、と。そういう謎の交換が、あらゆるものとなされているのだなぁ、ってしみじみと思っておくと、等価であるとかどうとかは関係なくなるんじゃないかな、と。そんなのを論じたいと思っていたのでした。
 こりゃあ、なんだか無茶な話ですな。もっとエクササイズを積まないといけませぬ。こんがらがってもつれたものを、きちんと糸に戻して書けるようになりたいものです。はふぅ。

 

 というわけで、書いてみたら失敗だった記事を振り返ってみました。ひとりで反省会しているようなもんで、読まれている方には見苦しいものかもしれません。いや、ほんとすんません。m(_ _)m
 でも、着想はいいと思ったのです。等価交換を理想状態にするが故に起こっている悲劇はあると感じたのです。そして、謎の交換も存在すると思っています。それを明らかにしてみたいのでした。(内田樹さんがどこかで、自分に贈られたものだと「勘違い」することが大切だ、って書いていたような気もします。どこだったっけなぁ)

 平等という理想よりも、不平等という現実をそのまま愛することができたらいいのに。そんなことも思いながら、少し交換についての問題は寝かせておきます。また、何か思いついたら書こう。

 

m(_ _)m

 

 

 

 

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく)

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