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meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

facebookの「そもそも」を考える。いや、全く考える必要はないのだけど。。。

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 にわかにこんなタイトルで書きたくなってしまいました(なぜ書きたくなったのかは秘密です)。タイトル詐欺にならないように、ちょいと頭を捻ってみます。ギュッと絞れば何か出てくるはず。たぶん。絶対。

 facebookが必要不可欠になってきたのはいつ頃からでしょうか。あんまり覚えていませんが、たしか、登録したのが2011年頃です。わたしにしては珍しく、遅め遅めの登録だったように思います。mixiとかtwitterとかで、既にSNS疲れを感じていたし、まぁ、なんだかメジャーなことはしたくない的マイナー根性だったのです。
 しかし、意外や意外、登録した途端にあれよあれよと「友達」が増えてしまいまして、数百人ぐらいで安定しました。mixiから大移住したわけでもないのに、よく考えたらボンボン増えたもんです。それだけ人に会ってきたってことなのでしょう。ま、周りの人に比べりゃこれでも少ないもんですけども。

 そんなこんなでわたしの生活にも深く浸透したfacebook。周りを見ても、どえらく普及したもんだなぁと感じます。当然のごとく、これはインフラであって、だから、インフラに「そもそも」も何もないような気もしてきます。だいたい、電力供給の「そもそも」なんて考えませぬ。ん、いや、考えた方がいいのかもしれませんね。時勢的には。(;・∀・)
 それはさておき。facebookのそういった普及に伴って、悲劇も起こっているわけです。友達が友達でなくなったり、タグ付けでショッキングな事実が判明したり、見たくもない情報を見せられたり。普通に使ってりゃそんなこと起こらないんですけども、たまに起こる悲劇にうぎゃー、へぎゃー、もぎゃー、っとなってる人も見かけたことがあります。そんななら、facebookなんかやらなきゃいいのにとさえ、正直思うのです。
 「そもそも、facebookなんでやってんの?」と問いたくもなります。はて、なんでやってるのでしょうか?

 

SNSで「友達最大化計画」しようと思った。

 高校時代ぐらいの暗黒少年kimuraは「友達最小化計画」というのをやっておりました。どうでもいい人間関係は、どうでもよい。そんな思い切った政策を打ち出したのです。なんとまぁ、愚鈍であることか。その最小化計画のお陰で、高校より前の人間関係は非常に薄いままです。よく考えたら、中学時代の友達はfacebookにはいませぬ。どっひゃー。
 そして大学時代ぐらい。ブログやSNSを知り始めた暗黒青年kimuraは、これではいけぬと気づき「友達最大化計画」を発動します。たぶん、発動してたと思います。うん、きっと。
 この「友達最大化計画」というのは、友達100人つくるぞおらー、って勢いを目指したものではありません。基本的に草食もそもそ人間なので「出会ったご縁をそのまま残す」が基本戦略です。積極的に外には出ないけども、会ったら離さない。SNSだとそれができると思ったのです。
 友達最大化計画を意識していたかどうかは別にして、現にわたしのfacebookはそのような状況になっています。もちろん、いくつかの例外はありますけども、その時代々々の交友関係がわりとそのまま保存されている。こうしておくことで、、、まぁ、何かあったときに遊んだりできます。ヽ(´ー`)ノ
 え?個別に連絡すればいいじゃないかって? そんなの恥ずかしくてできませぬわい。どきどき。

 

ゆるくつながって、影響し合っている。

 かくして、facebookはわたしにとっての、関係保管庫となりました。さらに、保管された関係をときに参照したり、解凍したりして、新しい展開に結びつけるツールにもなっています。それは書庫みたいなものなのかもしれません。おお、まさしく「face」「book」ですな。
 しかし、この書庫、ちょいと特殊です。本が勝手に蠢きます。ひょいひょい動く本もあれば、ぞわぞわ這いずりまわる本もなくはありません。わたしも動きます。だから、関係は保管されているけども、関わり方は動きに合わせてゆる〜く変化します。
 このゆるい変化や影響のし合いが楽しいわけです。お、やつはあんなことやっとるぞい、と知ること自体がなんだかおもしろい。意識高い感じに言えば、いろんな情報を眺めることでふっと生まれるクリエイティビティがなんたらかんたらです。おばちゃんが井戸端会議してるようなもんかもしれません。
 そこには、いい井戸端会議もあるし、悪い井戸端会議もあります。スキな井戸端とキライな井戸端もあります。そんなのをざら−っと眺めて、ああ、こりゃあもういいやってのは「投稿非表示」なんかにしていくわけです。別に関係が切れるわけでもないし、どうせfacebookアルゴリズムで選別された情報しか見られていないのだから、非表示に躊躇はありません。リアルで会ったときに、お互いfacebook見てる前提で会話しようなんて、夢にも思いませんしね。
 そのぐらいのゆるさと気ままさが持てるってのが、心地よいのでしょう。facebookとの関係自体をこちらでアレンジできる機能もついてるんだから、自分で心地いいようにしておけばよい。そう思っています。

 そうこう考えているうちに、やはりfacebookは「物言う本」に思えてきました。faceradioやfaceTVではないのですな(なんか、近頃動画が上がってたりして、ちょっとずつTV化してる気もしますけども)。情報を取りに行くもよし、取りに行かないもよし。自分で操作できてしまう、ゆるさがあります。

 

 

 

 ここまでの話をまとめると、どうやらわたしにとってのfacebookは、関係保管庫であり、かつ、物言う本であるようです。他にも、メールの代わりだったり、やるせない気持ちを叫ばせてくれる海だったり、わかってもらうために差し出す名刺だったりもするのだけれど、根本的には関係のストックであり、情報のフローのように思えます。過去と今なのです。
 インターネットの世界が広がることで、イマココを大事にできなくなってきたとは言われますが、こう考えてみると過去をこれだけ大事にとっておけた時代はないだろうし、その過去が動いて情報を生み出し、自分の今に影響して刺激を与えてくれる、経験の質を変えてくれるなんてことができた時代もなかったでしょう。わりと心底、豊かだなぁ、と思います。
 たまにうがーっとなってる人も見かけますが、わざわざこのツールでヒンコンしなくてもよいでしょうに、と、そんなことを思うのでした(リテラシーの問題なのでしょうけど)。

 

m(_ _)m

 

 

インターネット (岩波新書)

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