いい日です。とっても気持ちのいい空が広がっていまして、空気はほどよく冷たく、爽やかで澄んでいます。秋の空ってこんなにも快いもんだったのかと、思い知らされるような空です。
さて、今日は相変わらず教育の「評価」について書いてみたいと思ってます。というのも、週末、以下の記事を朝から読み込んでしまったからです。今の教育は経験主義的過ぎて、エビデンスもないままに判断がなされてしまっているよ、的な話でした。
ちょっと前に書いていたルーブリックのこととリンクしていたのもあって、起き抜けの寝ぼけ眼がずいぶん冴えてしまいました。
うむむ、これはなかなか正しい話であって、妙な話でもあるかもしれぬ、というのがわたしの第一印象です。駒崎さん、中室さんのお二人も論争をけしかけている感もあるので、これはいっちょ乗っかって考えてみるのがよいでしょう。さて、わたしたちは経験と、エビデンスと、どうやって付き合っていけばよいのでしょうか。
エビデンスは教育を変えるのか?
エビデンス重視で話すときに一番恐れなくてはいけないのは、「エビデンスないならやんない」です。意外と多くの人がこの罠にひっかかります。当たり前の話ですが、効果があると証明されている方法しか実行しない、という態度は活動の硬直化を招きます。その態度には、試行錯誤をする努力も、リスクを背負う覚悟もありません。そんな取り組み、成功するわきゃないですな。
エビデンスベースドで話すときには、まずここをおさえておきましょう。エビデンスの役割をきちんと把握しておくことです。経験主義と同様に、エビデンスだって暴走します。わたしの感覚からいって、エビデンスは継続、安定、拡大局面で使用するのがいいものだと思っています。「ほーら、効果があった、じゃあ他でもやろう!」とか「ここなんか異常が出てるよ」というアラート上げがエビデンスの本領でしょう。駒崎さんや中室さんは「国の政策判断」という取り組みの拡大局面で経験主義が横行しているのがよくない、と言っているのだと思うのです。
つまり、エビデンスは大きく変えるときに必要なもので、小さな単位で新たな取り組みをはじめるときには邪魔になってしまうこともあり得る、ということです。わたしとしては、新規で、おニューで、妙ちくりんなことを始めようとしたときに、エビデンスハードルが越えられない壁になってあらわれてしまうのは、あんまりおもしろくないなぁ、と思うのですな。
エビデンスがないから、経験で仮説を立てるのだ。
とはいえ、凡人の思いつきで怪しげな教育プログラムを提供するわけにもいきません。現状のデータをおさえた上で、さて、どうするか。ここで活躍するのが経験ではないでしょうか。経験は新たなフィールドを開拓するときにこそ使えるものです。「こういう教え方をされたから」「こういうデータがあるから」、たぶん「こうなるに違いない」。この道筋をサポートするのが個人が蓄積してきた経験だと思うのです。
さすがに経験をもとにした推論で国家政策をされちゃ大変ですけども、小さな取り組みを行うに際しては個人の経験がモノを言います。ゲームばっかしてたけど成績よかった、ってことは、ゲームも学力につながるんだなっ!という着想は経験的に導かれる。ということは、経験が強みを活かせるフェーズは、変化、開発、立ち上げ局面です。もちろん、新規の取り組みにもエビデンスがついていればバンバンザイですが、それは難しいんですなぁ。新規だから。(;・∀・)
あ、なんかややこしいので念のため書いておきますと、エビデンスってのは個人の経験ではありません。上記の例でいうと、わたしはゲームしてたけど成績よかった、は経験であってエビデンスではありません。ゲームばっかしてた集団の方が統計的に成績がよくなった、がエビデンスです。あしからず。
ともかくも、データは取ろう。
まぁ、どちらにしたってデータは必要です。守りの意味でも、攻めの意味でも、データのあるなしは大変重要です(ここまでデータの本質は守りだよって話を書いてきてなんですが。。。)。ほんでもって、データを取るときのポイントは「自動的に取れるデータをつくる」です。忘れて取れなかった〜、ごめんなさーい、と言われてしまえばそれまでよ。そんな悲劇が往々にして起こります。
自動的に取れるようなデータはどこにあるか。そこからおさえていきましょう。ひとつでも何かを見つけられれば、定点観測が可能になります。そこが話の土台です。ちょっとずつでもデータをとって、エビデンスをつくっていく姿勢はもっておいて欲しいなと思います。
忙しくって、そこまで手がまわらないもんだったりするんですけどね。わたし自身も、なんらか定点観測をしていかねばなぁー(教育者じゃないけど)。
m(_ _)m