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meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

震災から5年。3月11日を被災地のための日にしないために。

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 3月11日である。東日本大震災福島第一原発の事故から5年が経つ。ひとつの節目だからなのだろうか、今週はひたすらラジオから震災関連のニュースやドキュメンタリー、ラジオドラマなんかが続いた。毎日聞いていたのもあって、ちょっとうんざりもする。もう5年なのか。まだ5年なのか。

●◯。。。...

 被災地の話にしてしまってないかなぁ、などと思う。震災、被災地、復興。現地の方や支援者が頑張っているのはいいことだけども、どうも話があっち側である。復興は被災地で起こっていることで、悲劇も英雄もあっち側にある。
 傍観者は傍観者の、こっち側で営む生活の当事者であることを思い出してもいいんじゃないかと思った。被災地で震災を語ることばかりに気が向くけども、今いる場所での震災感覚をもう少し持ってもいい。だから、いくつかの問いを考えてみた。

1)あのときの感触を覚えているだろうか?

 どこにいて、何をしていたのだろう?周りはどんなことをしていて、自分はどんな想いにとらわれたり、とらわれなかったのだろうか。あの時期、日本中を「正しさ」が席巻した。その流れが弱まった今、正直に自分が感じたことを思い起こしてみて欲しい。それが不謹慎なものであっても構わない。

2)3・11は自分に何をもたらしただろうか?

 振り返ってみると、あの出来事はどう位置づけられるだろう?人生の大きな転換点になった人も多いと思う。では、どんな転換で、どっちの方向を向いて、どんな意味を持った出来事になっているのだろうか。スイッチになった人もいるだろうし、ずーんと重い漬物石みたいになっている人もいるだろう。

3)何が変わり、何が元の木阿弥になっただろうか?

 変わったことは何だろう?周りのことも、自分のことも含めて、どういう変化をしてきたのだろうか。3・11があったからこそ、できたこともあったのではないか。そして、復興とともに「せっかく変わったのに戻ってしまったこと」もあるかもしれない。なぜ「戻ってしまった」と思うのだろうか?

●◯。。。...

 東日本大震災を単なる災害とは思えなかったし、今も思えていない。防災意識よりも、ライフスタイルへの問いかけという面の方が強調される。2011年の夏、現地に行ったとき、津波でさらわれた家々から溢れ出た大量のモノにたじろいだ。それがわたしの中にじんわりと残っている。
 さて。これからわたしたちは、何を知り、何を選んでゆくのだろうか。

 

m(_ _)m

 

 

知ろうとすること。 (新潮文庫)

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