meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

本当だとか、本物だとか、本質だとかがいいに決まってると思っているあなたへ

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 ナマがいいなんて誰が言ったのだろうか。天然、自然、本物、本当、真実、事実、すっぱだか。どうにも近頃、ナマナマしたものがもてはやされているように思う。食は無添加だし、メイクはナチュラルで、服は天然素材となり、あなたは心の鎧を脱ぎなさいときた。果たして、本当の自分なんてものはあるのだろうか?などという疑問も浮かんできてしまう。

 自然を破壊し、人に肩書きをつけ、建物はゴージャスに彩られた。色々なモノゴトを片っ端から塗ったくってきた、そんな時代への反動がナマナマへの回帰なのだろう。ウソや不誠実やフシダラで塗り固められたものに囲まれ過ぎて、本当のモノを求めたのだ。その気持ちはわかる。わかるけども、ナマナマ回帰が行き過ぎてしまうのも好きではない。むしろ、嫌いだ。わたしはわたしなんぞに縛られたくはないのだ。

●◯。。。...

 地方移住をしておいて、一体なんだと言われるかもしれぬ。田舎志向もナマを求めるひとつのあり方だと思うからだ。でも、わたしはこれもひとつの衣だと思っている。普遍的な真実が田舎にあるわけではない。真実ってのは、想定し、追求することにおもしろさがあるのであって、そこに辿り着いてはいけないのである。辿り着いたというならば、そこが終着駅だ。ナマナマの神様となり果てて、原理主義へと導かれてしまう。
 原理は恐ろしい。人は生きるべきだ、自然は保護すべきだ、やりたいことをやるべきだ、殺しはいけないのだ、などなど。正義のように見えて、まさしく反論できない正義であって、余地がないからとても窮屈になってしまう。世の中が多様性を認めれば認めるほど、人はどこかに共通項を置いておかねばならぬ危機感に囚われ、原理に解を求めにいく。
 「伝わればいいんだから、メールに挨拶なんか書く必要ないよね」なんて意見に納得してしまいそうになり、形式には意味を付け加えねばならないような気になってしまう。培われた型はひっぺがされ、体は崩れ、徐々に徐々にナマナマ勢に押し込まれていく。この場合、伝わればいい、が錦の御旗となる。多様性が寛容を呼び、ここが最後の砦とばかりに原理が強くなっていくのだ。
 そして、強くなっているがために原理に背くものは強烈に排除されてしまったりもする。

●◯。。。...

 そろそろナマばかりが真実だとか、本当の自分がやりたいことをやってハッピーだとかいう話に胡散臭さを感じ始めてもいいころだろう。みんながみんな輝いて、一億が総活躍するなんてことはない。ウソも方便、コロモをつけるサクサク感にも目を向けるべきだ。
 素顔がよくないと思うから化粧をする。その着飾りに潜む謙虚さやいじらしさや可愛さをもっと愛でてみるのもいいと思う。衣装やスタイルや姿勢や役割で彩ってみればいい。ナマを求めるからナマがわからなくなる。着ているものも、乗っているものも含めて、わたしなのだと気づけば、ナマに縛られず、あれやこれやにわたしを拡張していけるのではないだろうか。

 ナマナマ志向には対抗をしていかなければならない。
 世の中バランスなのだ。

 

m(_ _)m

 

 

 

物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)

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