meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『サラバ!』ぼくは自分の足で立っているのだろうか。

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 小説読書が続いている。小説づいているようで、今はとにかく物語を読みたい気分なのだろう。『サラバ!』はひょんなことから家に来た。借り物だったから、手元にあるうちに読んでしまおうと思った。前半はなかなか進まず、後半になってやっとペースが上がってくる。そんな本だった。
 個人の生育歴であり、思い出話であり、家族の群像みたいなものかもしれないなと思った。生まれたときからはじまり、少年期を経て、青年期を経て、大人になって、また戻っていく。少年期や青年期が前段になっているようでもあって、だから、前段が長くてペースが落ちてしまうようだった。だが、長い前段を整えた後には、どーっと進む後半がある。人間、つまづいてからがおもしろいものなのかもなと、思わせられた。

●◯。。。...

 ざっくりと言えば、何だかんだありつつもうまくいっていた人生だったのに、ほころびから攻めこまれて揺れてしまうという流れであった。一方で、ほころびの原因となった家族は、いつの間にやら自分の信じるものを見つけている。それを知って、主人公はまた揺れる。
 軸や芯となるもの。それがないから揺れてしまうのだというと、カンタンな構図に当てはめ過ぎになるだろーか。しかしこれは、カンタンなようでいて、タイヘンな問題なのである。揺れがない、揺るがない。しかと地面に立っている様子が思い浮かんだ。そういう姿は美しいのだろう。
 地面に足をつけて立ってみる。その自分を観察してみる。観察を続けていると、徐々にゲシュタルト崩壊のようなことが起こる。立っているのだろうか、立たされているのだろうか、そもそも本当に立っているのか、どうか。よくわからなくなる。身体はどちらかの方向に動きたくなっているようにも思う。じっと立っているのは、難しい。徐々に自分の揺れがわかってきてしまう。
 たぶん、スッと立っている人は、気持ちよく生きているのだろう。信じるものに忠実で、素直で。僕自身は、そういうふうにスッと立っていたいもんだなと思うこともあるけど、揺れている方が性に合っているのも事実で、なんとも言えない漂いの中にいる。サラバ!っと、威勢よく振り切ってしまえばいいものなのかもしれないけど、そーゆーのはキャラじゃないのだ。

●◯。。。...

 主人公が生きた世代と、僕の世代とはわりと同じだったようで、それも重ねあわせの結節点になった。阪神大震災アラブの春といった出来事が、生きる歴史の中に出てくる。それらはきちんとつながっていて、やっぱり世界の中に自分がいるのである。世界の中で、揺れたり、立ったりしているのである。
 ふむ。軸がない、芯がない。こういう系統の問題って、実はこの世代ならではのことなのかもしれない。

 

m(_ _)m

 

 

サラバ! 上

サラバ! 上