meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『一九八四年』「Aであるが、Aでない」を飲み込めるか。

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 「ま、過去も変えられるんだけどな」と、あのときの社長は言った。社会人になって、初めて勤めた会社でのことだ。なんで、覚えてるのかはわからない。妙なことだなと感じたのだろう。未来は変えられる。それならわかる。でも、過去も変えられるという。どういうことなのだろう。

 『一九八四年』はずーっと読もうと思って、そのまま眠りこけていた小説である。村上春樹の方じゃなくて、ジョージ・オーウェルの方。「Q」じゃなくて「9」。ちゃんと数字の方だ。
 ディストピアというか、なんというか、独特の世界観が広がっている。テレスクリーンという受信と送信を同時に行える装置が普及し、高度に監視された社会が舞台である。「党」が権力を握り、逆らえば「蒸発」させられる。思考さえもが監視されていて、「思考犯罪」があり、危険な思考の兆候ありとみなされれば死は免れない。そんな世界での物語である。

●◯。。。...

 「党」は都合のいいように過去を書きかえてしまう。これは、歴史において、そのときどきの政権が正統性を示すために歴史書をつくったような程度ではない。おおよそ全ての文字情報が改ざんされており、何が真実なのかを知るすべはほとんどなくなっている。「イースタシアと戦争している」と言えば、ずーっと前から交戦状態だったということになり、数年前まで同盟関係だったことは棄却され、忘却されてしまうというという具合である。改ざんは日常的に、リアルタイムに行われていく。
 ただし、それらは本当にまっさらに忘れ去られるわけではない。覚えている人もいる。覚えているのに、それを事実、もしくは真実だと認識しない。イースタシアとは長年交戦中で、イースタシアとは同盟関係である。論理的に破綻したこの矛盾は「二重思考」で乗り越えられてしまう。「党」の発表は絶対であるけども、どうも単純な塗替えではないようなのである。
 監視社会とそれに反抗するレジスタンス的な物語か何かだと思っていたのだったが、見事に裏切られた。そうではない。この「二重思考」こそがぼくにとっての中核だったのだ。

●◯。。。...

 原発反対と言いながら、その恩恵を受けている。愛しているけども、不倫する。仕事したくないけど、仕事に就きたい。世の中は矛盾に満ちている。考えていけば考えていくほど、純粋はなく、不純が世の中を覆っている。純粋になろうとすれば、若いと言われ、青いと言われ、鼻で笑われるのが世の中なのかもしれない。『一九八四年』から目をあげれば、みんながみんな、多かれ少なかれ「二重思考」を駆使して、生き長らえているように見えてきたのだった。
 その矛盾に囚われて、純粋を求めようとするのが「思考犯罪」であり、囚われそうになったら「思考停止」で対処しなければならない。矛盾を矛盾としてそのままに認識しつつ、都合のいい方を採用していくのが「二重思考」であり、これを身に着けていないといつの間にか「蒸発」したように消えていく。
 狂気の程度は違う。とはいえ、このディストピアは現代にも似ている。

 純粋を求めるか、不純に浸かるか。どちらが人間らしいといえるのかは、ぼくにはわからない。ただ、できるだけ思考はしていたいと思う。どちらかというと、豊かな二重思考をしていたいと思う。
 一九八四年、「党」はニュースピークという新しい言語の研究開発を進めていた。語彙は限りなく減らされ、スマートに、貧相になっていく。言葉は思考の幅を決める。ふむ。とりあえず、「パネェ」だけで会話できてしまう状況を、あまり看過してはならないのだろうなと思う。

 


m(_ _)m

 

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

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