meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

彼はきっと、今でも自分の正義の中に埋もれているのだろう

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 相模原の知的障害者施設で殺傷事件が起こったのが、もう1ヶ月ほど前になるだろうか。19人が亡くなるという痛ましいニュースがラジオから流れてきた。すんごい事件が起こったと思い、続報を注意深く待った。波紋は広がり、議論が起こり、facebookには意見や感情が溢れ出す。わたしの周りには福祉っぽい人たちが多いからか、概ね加害者に批判的な文章たちだった。
 以来、日常が流れていく裏っかわで、じーーーっとこの事件に関する思考がまわり続けていた。ひっそりと奥底を流れ、たまにひょいと顔を出す。どうやら何かを言いたいらしい。わたしはどこかに不足を感じているようだった。

●◯。。。...

 先日、昔の仕事についてこんなことを聞かれた。「そんな仕事をしていて、しんどくなかったの?」。前の職場では発達障がいを持った人やうつ病になった人を相手にしていた。その思い出話をしていたときだった。
 ふと、口をついて出た回答に、自分自身がちょっと驚いた。「自分は目の前にいる人たちよりも社会的な立ち位置が上である、ってことが最終的なところでぼくを支えていたと思う」。そんなことを言いはじめた。福祉的な人たちが見たらソッコーで非難するような考え方かもしれないなと、言いながら思った。だけども、たぶん、わたしの本心に近いのだろう。妙に納得した。

 相手の論理をよく聞き出す。尊重する。その上ですり合わせる。それができれば理想的だけど、できないことだってある。その場合は、どちらかを優先するって話になってしまう。あとは力の上下がモノゴトを決めた。どちらがより社会に近いか、と言い換えてもいいだろう。なんだかとっても冷たいことを、それに近いことを、していたという自覚はあったのだ。
 それは福祉的ではないのかもしれず、そして、とても普通のことだと、今でも思う。こんなにドライにやってはないにしろ、社会はそれほどウェットでもないだろう。なんだかんだと自分の考えを展開する相手に対して、「それはあんたのワガママだよ」と言ったかどうか。直球を投げずとも、似たことを伝えた気はする。

●◯。。。...

 Life is not fair. 世の中はかくもアンフェアである。生まれも違えば、育ちも違う。才能の有無、センスの有無、体格、性別。とにもかくにも同一はなくて、多様が広がる。それは障がいがあろうがなかろうが同じことである。そこに入っていて、あなたはわたしと同じだよ、と言うには違和感があった。それはとても理想的で、正しくて、仮定でしかなかった。ひどく正しい世界にいると、紙一重で避けてきた世界に気づかなくなるのかもしれない。そんな世界はないものと思い、必ずあるはずの狂気を見失う。そこに正義が忍び込む。ダークサイドに落ちるようなものなのだろう。自らの正義が盲目を生む。
 自分が持っている狂気には自覚的であった方がいいののだろうと、わたしは思う。こんな文脈で引用していいのかわからないが、『フラジャイル』にこんな一節がある。

 日本の近代文学史では、こういう「邪険な哀切」を短い場面に描くのがうまいのは、実は鏡花よりもむしろ詩や童謡をつくってきた北原白秋や三本露風、西条八十らの詩人たちだった。もともと鈴木三重吉が大正七年(1918)に創刊した雑誌『赤い鳥』はその標題からしてフラジャイルであったが、その『赤い鳥』に西条八十が書いた「かなりや」が「邪険な哀切」をうまくあらわしている。八十は「唄を忘れた金糸雀は後の山にすてましょか」と最初から切りこんで、すぐに「背戸の小藪に埋けましょか」とつづけた。そのうえで、その最後に、「いえいえそれはなりませぬ」と結んだのだ。この「いえいえそれはなりませぬ」が紙一重なのである。 (『フラジャイル』松岡正剛 より)

 ああ、ここにこんな狂気があった。恐ろしい思想があった。イメージが出てきた。それを「紙一重」で避けてきたのだ。「いやいや、それはなりませぬ」と、良心が、理性が、ときには仲間が、止めてきたのだ。

 彼はきっと、今でも自分の正義に埋もれているのだと思う。そこに世界はひとつしかなくて、ゆえにスグそこで隣り合っている狂気もない。わたしは、そのシンプルさが怖い。

 

 

m(_ _)m

 

 

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

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