meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

無理が上から降ってくる、サラリーマン的哀しさについて

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 経営者ってのは、そんなもんじゃないの、と、名古屋で会った友達は言った。今の上司がさ、社会人になってから初めて出会うレベルの馬鹿なんだよね、と、東京で会った友達は言った。どちらも仕事上の話で、どちらも指示に関係する話である。
 一方は、大量の郵送タスクに対して、住所が与えられていなかった。他方は、2つのタスクがふってきたときに、優先順位が与えられていなかった。優先順位を確認したときの答えは、どちらもやれ、であったという。それでは間に合わない、が現実の状況である。
 あるある話だよなぁ、と思う。これがあるある話になっている、ってことに、ある種の哀しさを感じる。住所がないと言った友達は、もちろんそれを確認する術がなかった。名前と肩書きから、ひとつひとつ検索して、見つからんかったらどうするかなぁ、とボヤいた。

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 仕事とは、そういうものである。と言われればそれまでだろう。なんせ仕事は上から下へ流れるものだからだ。逆流したり、中間あたりで流れがぶつかったりすることも多いんだけど、通常は上から下である。上の采配に口出すことはまかりならず、結果としてサラリーマンの悲哀が生まれる。
 三角形の底辺はわかっているが、高さは不明である。さぁ、面積を求めなさい。前職にいたとき、そんな指示を理不尽だと言ったことが、わたしにもあったような気がする。諫言は聞き入れられないところまでがテンプレであって、きょとんとした顔でこう言われるのだろう。高さがあるなら、面積は誰にでも出せる。高さを見つけ出すのがあなたの仕事ではないのか、と。当然、このコミュニケーションは成り立っていない。底辺の長さだけで三角形の面積を求めることは不可能なのだ。

 ここでは2種類のタスクを考えなくてはならない。固いタスクと柔らかいタスク、仮にクローズドタスクとオープンタスクと言ってみる。前者はパズルみたいなもので、パーツが揃ってないとどうしようもできない。後者は絵を描くようなもので、こたつとみかんとネコを描けと言われたとしても、それなりの自由度が残っている。前者は正確性が求められるし、後者は相手の好みに合ったものが求められる。これらはカッチリわかれるものではなくて、人によってもクローズ性とオープン性の度合いは変わってくるものだと思う。
 上に書いてきたような指示の理不尽さは、クローズだと認識しているところに、オープンな扱いがくるために起こると考えられるってことだ。まぁ、だからといって、このピースが足りませんよと伝えたところで、状況が変わりはしないだろう。上流の流れは上流でしか変更がきかないことが多い。未完成のパズルを未完成のまま、三角形の高さを目分量で適当に設定したまま、なんとなく完成したように見せかけて持っていき、意外とそれがすんなり通っていくというのも、また、あるある話だったりするのである。上もピースを全て持っているわけじゃなかったりするから、話は難しい(領収書なくしてたりね)。

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 これらの曖昧を人間らしいと言って、可愛がることもできなくはないだろう。だけども、個人的には、もうちょい理を立ててくれないかと、思うことが多い。無理が通れば、道理がひっこむ。いつの間にか、これが大変に嫌いな言葉になってしまった。パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない。彼らはさらりとそう言ってのける。お菓子を選択できるのは、あなたがその地位にいるからなのだ。
 せめて、無理を無理だろうと認識するぐらいのことはして欲しいもんだ。困難と無理は決定的に違う。そういう良識を持った人が、ちょいとでも増えてくれたら、過ごしやすい世の中になるのになと、思う。

 

m(_ _)m