「排他主義なんて、大嫌い!」というようなコメントを見かけた。もう随分前のことで、確かトランプ大統領が就任して、少ししたぐらいのことだったと思う。メキシコとの国境に壁をつくるだとか、一部の国の人たちを入国禁止にするだとか、そんな話がわいてきた頃だ。世の中、ギスギスしてきたもんだなぁ、と眺めていた。
そのコメントをした方が何をどう考えて、感じているかはわからないけども、SNSにそう書き込むときに、躊躇なり、逡巡なり、ちょっとした戸惑いなり、何かしらのひっかかりがなかっとだろうかと、考えてしまう。言動に含まれている矛盾には気づいているだろうか。その振る舞いに自覚はあるだろうか。
その言葉が排他主義者を排他してしまう可能性に、目は向けられているだろうか。直情的に書いてしまったとして、そのあとの冷静は取り戻していて欲しい。勝手ながら、そう思う。
●◯。。。...
自身も政治の当事者でありながら、それを棚に上げてしまって言えば、あっちもこっちもまるで同じに見えることがある。何かを主張する人たちがいて、それに反する人たちがいて、どっちもやんややんやと言い合っている。もちろん、体制側の方が権力を持っている分だけ有利にゲームを進められて、それも含めて反体制側の人たちが悲痛な叫びをあげる。それはそれで必要なことである。誰も声を上げないってのは、よろしくない。
ただ、ぐいっと引いて見てしまいがちなぼくには、「どっちもどっち」と言いたくなることがあるのだ。主張と主張がぶつかり合う。その叫び方には、どこか似た雰囲気がある。どちらにも、危険の匂いがつきまとう。
プラカードを上げ、叫び、アジテーションする。非難が非難をよぶSNSコミュニティがあり、そんなスタイルとは一定の距離を置きたいと願う自分がいる。ぼくは、そのスタンスこそが、雰囲気をつくり、ムードを高め、ある種の方向性へと人を導いていくのではないかと、疑っているのだ。主張の内容などお構いなしに、その姿勢、方法、態度自身がメッセージを伝えていく。ゆっくりと、着実に。
●◯。。。...
メディアはメッセージだし、人は見た目が9割とも言われている。どんな正義を突きつけたところで、突きつけたならそれはナイフと変わらない。船頭をする人であれば、そのことには気をつかっておいて欲しい。
そして、ある一定数の、お茶を飲んでふいーっとしている人たちが必要なのだ。ばかなクマちんを、ばかだなぁ、と眺めて愛しむ心があれば、大丈夫。くまのプーさんや、差し込む夕日を、信じていたいものだと思う。
m(_ _)m