meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

それは、人の問題か?

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 年末から、ずっとこの問題が尾を引いている。ソーシャルな組織におけるマネジメントの崩壊。それがなぜ起こったのか。なぜ悲劇的状況にまでなってしまったのか。近しい組織で起こった問題でもあり、同じような経験をしてきたつもりもありで、就職活動の合間にあちこちで起こっている議論をばつまみ食いしては、うーんと唸っている。労務管理、理事会の機能、それらの問題は確かにあっただろう。
 ただ、やはり、そこが本質とは思えない。では、組織の代表の人間性の問題なのか。いや、そんなことを言っていいのか。どうか。

●◯。。。...

 罪を憎んで、人を憎まず。この言葉がまず思い浮かぶ。福祉とか心理とかその辺の用語で言えば、問題の外在化、である。人と問題は、まず引き離す。妖怪ウォッチ的な考え方であって、わたしが朝起きれないのは妖怪朝眠い魔人の仕業と考える。こうみなすことで、では魔人を倒すにはどうすっぺか?という議論ができるというやつだ。誰もわたしが悪いなんて、ぐーたらだなんて、寝過ぎだなんて、責められなくなる。
 だが、次にはこの言葉が出てきた。「分けて、分けない」だ。ここが今回の騒動では、明示的に言及されていないような気がする。たぶん、おそらく、わたしが見た限りでは。石黒さんが以下の記事で間接的に書いてたけど。

 問題を外在化する。外在化したけれども、では、そいつとは無関係でいられるかというと、そうではないのだ。友達になるなら話しかけないといけないし、ぶっ倒すなら殴りにいかなきゃならない。分けた後は、もう一回、「分けない」にする必要がある。問題との関係を立ち上げることで、アイダができる。そこに取り組めるかどうか、なのだろう。
 ややこしいことに、大抵の問題は人と人の間に起こるので、誰かひとりに責があるものとしても捉えられない。コミュニケーションは双方の協力によって成立する。どちらか一方を責められるものではない。妖怪は必ず間に生まれるのだ。だから、関わる人たち全員がその妖怪と無関係ではいられない。その妖怪を放棄したときが、関係崩壊のときなのだ。

●◯。。。...

 わたしは今までにいくつかの放棄をしてきた。妖怪にアプローチするのにだって、体力がいるし、精神力もいる。わたしの小さな容量は、スグにパンクしてしまう。コミュニケーションの相手が、間にいる妖怪に気づいているかどうかも問題である。妖怪は、大抵の場合、醜い。見たくないものなのだ。
 その自覚は、あるだろうか。妖怪を生み出した、自分の欲望に気づいているだろうか。誰が英雄になりたかったか。誰が守られたかったのか。その牙を鋭くする必要は、どこから生まれたのか。
 欲望というのは、なかなかにじゃじゃ馬である。どう手なづけていいやら、わたしも困っている。「資本主義の次は足るを知る主義じゃね?」と言っていた友人の言葉が、今は、とても遠いことがわかる。人間の業ってのは、デフォルメして、ゆるキャラにでもするのがいいのだろうけど、まだ、そこまでの巧さは持ち合わせていないようだ。

 ところで。人と問題は分けたがるのに、人と成功は分けたがらないのは不思議だなと思う。人間、意外とお人好しで、ご都合主義なのだろう。分けるも分けないも、因果同時みたいなものであって、気分次第で、自在なのだ。

 

m(_ _)m

 

 

 

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