meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

日本語が書けない。

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 文章は意外と難しい。いい文章を書こうと思って机に向かってみても、かじりついてみても、なかなか文章は書けない。書いては消して、書いては消してと繰り返した文章よりも、吐き出すようにつらつらつらっと書いた文章の方が気持ちがいいことも多い。一体、何がどうなって文が出来上がってきているのか、とんと見当がつかない。
 見当はつかないけれど、なんとなく感じていることはある。そのひとつは、気持ち悪い文章と気持ちのよい文章があるということ。読める文章と読めない文章がある、と言い換えることもできる。主張がハッキリしていて、理路がスッキリしていれば、とりあえずは気持ちがいい文章だと言えるかな、とは思う。
 でも、文章ってのは、もっと奥が深い。ぐるぐるさまよった名文もあるし、ハッキリしていてもモヤモヤが溜まる悪文もある。やたらに攻撃的な文章だったり、とにかく言い切って押し付けてくる文章だったりに触れると、ロジックだけが文章ではないなとしみじみ感じさせられる。

●◯。。。...

 文字の連なりというデータ的に考えれば大変に貧弱な手段であるにも関わらず、文章はその人を表す。これほどコピーが簡単なものもない、ってぐらいに素朴な連なりを、誰も真似することができないのは不思議である。もちろん、モノマネはできる。できるけども、例えば誰かが僕になりかわってこのブログを書いたら、違和感に気づく人は多いと思われる。
 200字ぐらいの文章であっても、なんとなくその人のクセが出る。2000字ぐらいになれば、まぁ、ちょっとやそっとの努力じゃモノマネすることすらできない。人それぞれに指紋があるように、文章にも文紋というか、書き手の魚拓が残っているようなのだ。

●◯。。。...

 文章には人が表れる。ということは、僕が、気持ちの悪い文章と感じるときには、きっとその書き手に対する気持ち悪さを感じとっているのだろうと、考えてしまう。人のことを気持ちが悪いと言ってしまうのはよくないことなのではあるが、率直に言ってしまえば、僕は気持ちの悪い文章を書いている人に対して、気持ちが悪いという感情を持っているのだと思う。逆に言えば、気持ちがいい文章を書く人のことを、気持ちがいい人だと思っている。
 もうひとつ言えば、文章を見て人の心配をすることがちょいちょいある。メールの文章が壊れていたりすると、大丈夫かな、情報が溢れてないかな、こんがらがってないかな、などと無駄に気をつかったりする。自分自身、体調が悪いときや、差し迫ったときや、情報を大量に浴びたときには、文章が壊れてしまう。情報を受け止めきれていない感覚、だろうか。一旦情報を置いておくお皿が満杯になっているから、料理もせずに、素材がそのままどどーんと出ていってしまう感じ、と言ったらいいか。
 いやいや。吟味できているからいい文章になるかといったら、そうではない、ってなことは冒頭に書いたばかりである。吐き出すように書いた文章の勢いは、ときにとっても気持ちがいい。だとしたら、気持ち悪さは文の連なり方に宿るのだろうか。

●◯。。。...

 日本語は難しい。考えてみれば、長文を書く技術を持っている日本人は、そんなにいない。学校で書く文章は、読書感想文が最長だとすると1200字とか2000字ぐらいか。大学受験でも小論文を除けば、国語の問題の回答で200字とかがあるかないかってところだろう。就活で書くエントリーシートも読書感想文ぐらいの分量が多い気がする。さすがに大学のレポートとか卒論はもっと長いけども、そもそも日本の大学進学率は6割とかである。意外とみんな、書いてない。
 書いてないのに、メールだとかSNSだとかで文章が溢れかえった。初心者マークなのに、初心者だと気づいてもいない素振りがある。教習所があるかと見まわしてみたけども、案外そういうトレーニングは確立されていないようにも見える。
 ならば、単語ばかりのメールも許されるべきなのかもしれない。読み手を想定もしていない通知もあって然るべきかもしれない。意外と日本人は日本語が下手なのかもしれない。

●◯。。。...

 ここまで書いて、書いたことがブーメランになって突き刺さった。僕は、日本語を書けているだろうか。最近、文章を書く頻度が極端に減っている。もっと自由に書けるように、自主トレを続けていかねばなるまい。

 

m(_ _)m

 

 

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