仕事の報酬は仕事である、と書くとなんともワーカホリックな感じになるが、だからといってただただ報酬を求めて仕事をしているかと言われると、そうでもない。人間はさほどシンプルで合理的につくられてはおらず、複雑でめんどくさくって天の邪鬼なのである。
ビジネスは合理を装っている。すべての活動を経済に置き換えて、合理に収束させたがる。だから、無意味な行動や、見返りのない愛に理解を示そうとしない。無駄に動く人間を見ては、無駄な動きをしているなぁ、効率的にしないとなぁ、骨折り損ばかりで成果が出ないなぁ、などとつぶやいて、その活動は徒労であると断じてしまう。これがビジネスチックの弱点なのだろう。
人間の活動やビジネスの枠外に出る。というか、人間の活動自体が本体であって、ビジネスはその一面なのだから、人間の活動がビジネスの外にはみ出しているのは当たり前のことである。活動はより多様なものだ。「お金を与えられるから、動く」という面ばかりに着目していると、いつの間にか論理は「お金を与えられないと、動かない」にすり替わってしまう。こうなると、自分の活動にも制限がかかりはじめる。リワードがないと、アクションしない。そのロジックのつまらなさは、言わなくてもわかるだろう。
逆に言えば、おもしろい人間というのは、なぜかタダでも動く人である。報われない努力をしちゃう人である。そういう人が、本当の仕事をしているのではないかなぁ、などと思ってしまう。
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何を求めて自分の力を投じるか、と考えた時点で、リターン思想にとらわれてしまう。とらわれてしまった人は、その構図を相手にも当てはめて考えてしまう。人を動かすためにはどうすればいいか、と考えたときに、ふーむ、ぶらさげるニンジンが必要だな、などと考えてしまう。もしくは、どのようなペナルティを設けるといいだろうか、と頭をひねる。相手にとっての得を設定するか、損を設定するか。どちらにしても損得勘定である。
その世界観はシンプルで楽かもしれない。何をするにしても損得で勘定ができる。勘定の結果、利のある方を勝ちとすればよい。意思決定の基準に迷わなくてもいい。ただし、損得勘定が自分の活動を制限するように、損得によるコントロールは相手の活動を制限してしまう。ここに限界が設定されてしまう。
本当ならば、人をマネジメントするとしたって、もう少し違った関係性もあったハズである。しかし、損得世界にどっぷりハマってしまえば、違った関係性に気づくこともできない。やりがいだけで人が動くなんて嘘だろう。けども、お金だけで人が動くことも嘘なのだ。自発的な活動を促したいと願うのであれば、枠外に出る必要がある。
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では、枠外に出るためにはどうすればいいのだろうか。改宗する気のない信者に他教の説法をしても効果はないだろう。わたしは今日も愛想笑いでシールドしつつ、さてさてどうするべきかと考えつつ、半分ぐらいは呆れているのである。
m(_ _)m
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