meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

東日本大震災から8年が経った。ぼくは今、どこにいるだろうか。

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 3月11日になった。朝6時過ぎに起きて、もさもさと朝ごはんを食べる。ラジオは震災の話。影山知明さんが話していた。そういえば、震災が起こって、クルミドの夕べに行き損ねたんだったっけ。内閣府の事業の中間報告会が延期だったか、中止だったかになってしまって、東京に行く機会がひとつ潰れたのだったような気がする。どうだったか。ちょっと記憶が怪しい。ただ、クルミドコーヒーの店主から、クルミドの夕べが中止になったという電話を受けた覚えはある。丁寧な対応だなぁ、と思った。当時、名古屋にいたぼくは気の利いたことひとつも言えなかったのだった。
 家を出るときには雨があがっていた。駅までの道を急ぎ足で歩く。いつもの満員電車に乗って、名古屋に向かう。岐阜で座ることができたのは、ラッキーだった。会社に着いて、デスクに座り、業務に追われる。月の前半は報告事項が多い。基本的には利益が出ているかどうかがベースとなる。予算と実績を比べて、イレギュラーな動きには説明をつける。説明が納得をえられるものであればOKで、首をひねられたらNGである。そんな報告が何につながっているのかを、ぼくは知らないし、あまり興味も持てなくなっている。
 14時45分に、LINEが届いた。黙祷の時間が近づいていることを教えてくれたのだった。なんとなく、ひとり、デスクで俯く。周囲は特に止まることなく、動いている。そんなもんかと思い、そんなもんでもいいだろうと割り切った。夕方までじりじりとした作業をこなして、さっさと帰途についた。
 名古屋駅は大混雑だった。JRがまた止まっていた。どうも動き出す見込みがないらしい。名鉄での振替輸送というのを、初めて経験した。無茶苦茶な列に並んで、ギューギューの電車に乗り込む。圧力がすごい。これが正常な世界だろうか。つい、そんなことを考えてしまう。

●◯。。。...

 8年は長い。この8年で、いろいろな事が起こった。島根に移住して山陰暮らしを楽しんでいたハズのぼくは、今、岐阜にいる。ライフスタイルを変えようとしたのに、今や満員電車で名古屋通いのサラリーマンである。なんとかかんとか、住む場所は岐阜に踏みとどまった。毎週、週末を楽しみにしている。都会に行かなくていいからだ(だから、なかなか名古屋の友達に会いに行こうという気にならない。みんな岐阜に来たらいいのに)。
 自分がこうなったからかもしれないけれど、やっぱり、徐々に、世界は元に戻ってきている気になる。傷口がふさがっていくように、さらりとした肌に戻るように、煌々とネオンが光り、ニョキニョキとマンションが生える。
 経済の明るさを単純に否定しちゃうことはできなくて、悲劇に浸り続けることが正しいことだとも思えない。そのどちらの感情とも付き合っていかなくてはならぬのだと思い直してみるものの、それではまったくの中途半端で、腰が座らない、意気地のない人間になってしまうのかもなとも思う。
 本当のことをやるのは難しい。最近は、特にそう感じる。周りを見ると、狸と狐ばかりが跋扈している。本当のことなんてものがあるものかと、以前のぼくなら言っただろう。それでも化けてばかりじゃ、あんまりにもハリボテである。
 ハリボテがどこまで耐えるのかは、わからない。もしかしたら、ハリボテに乗っかっていった方がお得なのかもしれない。いくらハリボテだからといって、多量の人間が乗っていれば、立派な船である。沈むことなど許されない。それがあっさり揺れて沈んだことを脇に置いておいて、ぼくは今のシステムの中にいる。

 どう扱っていいかわからない気持ちがある。そのことに、少しだけ、ほっとする。ぼくはまだ、単純さに回収されてはいないようだ。
 こうやって、どうしようもない感情を眺める日なのだなと、改めて、思う。

 

m(_ _)m

 

 

 

 

 

 

ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~

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