meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

現実世界におけるマニマニのあくまとの戦い

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 マニマニのあくま、といっても、MOTHER2の話ではなくて、現実の話。糸井重里さんもよく、こんなキャラクターを考えたものだなぁ、と思う。マニマニのあくま。マニーにはまさしく悪魔的な魅力を感じてしまう。
 マニマニのあくまといえば、『ハーメルンの死の舞踏』の大王ねずみのイメージが思い浮かぶ。

聖櫃の中では、身の毛もよだつような魔物の像が、ゆっくりと、止まることなく回りつづける。できものにおおわれた脂ぎった胴体は、中腰の姿勢をとり、頭は巨大なねずみの腐りかかった頭蓋骨である。化け物の首のまわりには、背後から尻尾が、首かせのように巻きついている。尻が前に回ってくるたびに、化け物は、祭壇上の大杯の中に、金貨を一枚ひり出す。同時に化け物と同じ形をした小さな影のようなものが放たれ、外へ飛び出ていく。
『ハーメルンの死の舞踏』 ミヒャエル・エンデ

 なんとも醜い描写であって、よくここまで書けたなぁ、と思う。こんな感情を持ってお金を眺めたことはない。この書き方だと、たぶん金貨は尻から出てるんだろうけど、それでも金貨だとしたら、うーん、ぼくはそいつを取りにいくだろうか。いくだろうなぁ。そしてマニマニ教団に入信ってことになるのだ。
 まぁ、ここまで激烈な表現ではなくても、50歩100歩といおうか、多かれ少なかれ、今のお金の仕組みにはこれに相似した構造が組み込まれている。給料の出どころは会社だけども、さらにその源流へと遡っていくと、なにがなんだかわからなくなって、付加価値だとか、経済をまわす、とかの言葉で有耶無耶にされてしまう。人間にとっての価値は、環境にとっての負荷であったりもする。だからといって、経済を切り離すこともできず、生活するならお金が必要で、ある程度はマニマニ教との付き合いが発生する。それは仕方がない。
 問題は、その付き合い方である。マニマニがあくまにならないような、距離の置き方が大事なのだろう。

●◯。。。...

 社会人なりたての頃からあんまり金銭に恵まれず、ゆえに金銭欲を知らない人間だったからか、前職あたりからの金銭欲求不満状態をまだ乗りこなせていない。特に前職から現職に転じたことによる給与面での下がりと、車の購入・維持での費用増がダブルパンチになっていて、自分でも、妙なところでクサクサした感情が出てくるなと感じるようになった。
 振り返ってみれば、NPOに勤務していた時代なんて今から考えると相当に大変な状況であった。それでも平然として、毎週末のように地方に遠出したり、イベントの企画とかをしていたハズで、当然のごとく交通費や食費がかかっていたハズだった。たしか、流石に高額なものには手が出ず、カメラやPC関係は清水の舞台から飛び降りるような覚悟で買っていて、服飾はかなり切り詰めていた覚えがある。でも、そのわりには自由だった気がする。その先のキャリアについて何にも考えてなかった、とも言う。
 ところが、この年代になってから給与明細なんかをチラ見して、30の半ばを過ぎてこんな金額なのかぁ、なんて思ってしまったりしていて、そんなら、ぼくがそこまでの価値を提供している人間なのか、と冷静に考えたら、そうでもないことがスグにわかるのだから、やっぱり何か、自分の中の前提がおかしくなってしまったのだろう。じゃあ、生活が苦しいのかといえば、そうでもない。
 立派にマニマニのあくまに回収されてしまったのだ。

●◯。。。...

 心理学用語的に言えば「他者比較」とかいうやつなのかもしれないが、なんとなく他者と比べて勝っていたからといって満足するような気もしない。マニマニは結局、さらにさらにと欲求を高めてくるだろうから、真正面から向かっていってもあまりよい結果にはならないだろう。預金残高が100万円から500万円になったところで、基準値が引き上がっただけで、安心や幸福が生まれるわけではなく、たとえ5000万円あったとしても、何かに使って5000万のラインを切ったら、やっぱり苦しいと感じるのだと思う。そういう小市民なのだ。
 お金は大事だ。10年前のような無謀な心持ちも好きだけれど、どうもそこに戻れる気はしない。前職で管理会計に片足突っ込んで、営業利益の大切さも、それはそういう世界のもんとして、理解してきた。なんだかんだでマニマニとの付き合いは続いていくから、飲み込まれないようにだけはしておきたいなと思う。
 そうするためには、なんだろう。もうちょい本業以外のところに線を見つけにいかないといけない気がしている。

 

m(_ _)m

 

ハーメルンの死の舞踏