箱根駅伝の往路が終わった。そろそろ帰宅である。渋滞を避けて、うまいこと帰りたいなぁ、と考えている。今日は天気がよくて良かった。この年末年始は、いつものように帰省ができてよかった。それなりにやるべきことがあって、全部ではないけれど、おおよそ片付けることができた。
思った以上に寝正月ができたのもありがたかった。Deep Learningの入門書には手をつけられなかったけれど、『あなたへの社会構成主義』は一応の読了を迎えられた。家事をしなくていい、ということだけで、かなりの余裕ができるもんである。ありがたい。
箱根駅伝が終わったから、暇つぶしにおしり探偵のアニメを流してみる。こう見ると意外とかわいいキャラなんだなぁ、と思う。おしりって設定は、卑怯だな。一点突破の破壊力だわ。
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ぼくのまわりは概して平和である。特に午後の日差しが届く、エアコンが効いて、こたつに足をつっこめるようなこの環境は、とても恵まれているのだろう。そんな中で、ひたすらテレビを眺めながら、集中できない頭で社会構成主義について考えた。久しぶりに、モドキの世界である。
事実がいなくなり、関係が残る。言語は世界を写しとらない。科学がレトリックとなり、客観に疑いが生じる。心や思考は個人に備わっている、という認識から離れることを要請され、もう、世の中の全てが砂上の楼閣に見えてくる。なんとふわふわした、頼りない雲の上で、ぼくらは世界を演じているのだろうか。
自己が関係の中に立ち現れると考えるのは、分人主義ってやつだろうか。自己ってのは、案外そういう、どこか一時的な現象みたいなもんなのだろうなぁ、って思う。論理だってそうだ。1足す1が2になるってのは、そういうコンセンサスが共同体の中で通用しているってことでしかなくて、違う舞台に乗れば、今のぼくたちには信じられない踊りを踊りはじめる可能性だってあるのだ。
強固な地盤の上にいるハズだ、科学的な事実は間違っていない、そういう固い信仰に問題があるってことだろう。ゆるい土壌の上に腰を据える度量が必要なのだ。
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普段はシステムの世界に住んでいて、そこから医療をほんの少し覗いている感じだから、こういう考え方にどぷっと浸かる機会は貴重だ。社会構成主義を極端に捉えれば、データなんて何の意味も持たなくなってしまう。でも、そうなのだ。データが表現する事実はひとつの事実でしかなくて、その他の事実が同時に存在することを否定してはいけない。
データははっきりした土台で、そこに論理のハシゴを積み上げて、結論に達する。それもひとつあり様である。それが共同体の中で有効だから、それを採用しているってぐらいのもんだと思えばいい。それは、真実を1つに絞らなきゃならない圧力を感じなくていい、ラテンな態度だと思う。
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そろそろ帰る時間になった。おしり探偵は終わって、今はよしもとの漫才が流れている。いつもの正月ながら、その様子も、実はかなり変わってしまった。年末年始、食事はばあちゃんとおかんとぼくの3人で食べた。じいちゃんは特別養護老人ホームで過ごしている。時間を経て、いろいろなものが変わっていく。そのときどきで、考え方も変わればいいと思っている。
さて、帰路につく時間である。気をつけて帰ろう。
m(_ _)m