meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

じいちゃんが死んだ。

 じいちゃんが死んだ。
 金曜日の昼だった。おかんからLINEが届いた。13時45分、永眠。詳細は追って。端的な連絡な連絡だった。きっと、本人もどう書いていいかわからなかったのだろう。ぼくだってわからない。家族の死をどう伝えるかなんて、考えたこともなかった。94歳。4月には95歳だったらしい。よく生きた。ほんとに、よく生きた。

●◯。。。...

 しばらく前から身体を悪くしていた。最後に声を聞けたのは、たぶん、2021年の夏ぐらいだったろうか。病院に見舞いに行った。兄貴とZoomをつなげて、なんだかんだと話しかけるぼくたちに、めんどくさそうに、よっしゃ、と答えていたような気がする。もうええわ、ってニュアンスだった。かなりうろ覚えだけど。
 それからじいちゃんは、特別養護老人ホームってとこに移った。年末に見に行ったときには、車いすに乗っていて、見えてんだか見えてないんだかわかんない目で、アクリル板越しにこっちを見ていた。話しかけても声は返ってこない。たぶん、結婚の報告をしたはずで、びっくりしたはずだ。こっちの声だけ聞こえていれば、それでいいと思った。
 4月に行ったときには、窓越しの面会だった。まだ車いすには乗れていた。職員さんにPHSを当ててもらって話しかけた。相変わらずぼやっとした表情で、反応もあったかなかった。そんでも、奥さんの顔を見せられたのは大きいことだったろう。もうこちら側の想像でしかないけれど。

●◯。。。...

 秋になって、じいちゃんはコロナに感染した。感染経路は不明だったとか。ホームで1人だけ感染して、病院に移った。そろそろ駄目かもなぁ、とみんなが考えた。みんなが何となく覚悟して、それでも、面会できないまま亡くなるのは淋しいだろうなぁ、とか思っていた。
 2ヶ月ぐらい入院しただろうか。あんまり改善しなかったらしい。このまま治療を続けても仕方がないとの判断で、特養に戻ることになった。退院の日には早退して立ち会いに行った。ぼくだけかと思ったら、長野から叔父叔母夫妻も来ていて、ああ、そういうことなんだなと思った。
 面会は2人ずつ。仕方ないから、仲の悪い(というかこっちがひたすら嫌悪している)親父と一緒に病室にあがった。しきりに退出したがる親父を背に、じいちゃんを見つめた。少し形が崩れたように見えて、なんだろう、仙人みたいな雰囲気があった。目に焼き付けておかなきゃと思ってみたものの、焼き付け方がわからなかった。
 看取り介護ってのが始まると聞いて、ぐぐった。看取り介護加算の算定は死亡日から遡って45日とのことだった。そのぐらいなんだろう。年末年始のシステム移行が気になった。繁忙も繁忙、ぼくの仕事はめちゃくちゃ忙しい時期に差し掛かっていた。職場にはそれとなく、何度か、祖父が危なそうだと伝えておいた。こういうとき、前フリはしておくに越したことはない。

●◯。。。...

 特養に戻ってから、容態は安定したようだった。12月はタイミング合わずで会えず、1月も連絡がなかった。2月になって、何度か危なそうだとの連絡があって、会いに行った。行くたびに、顔を見ると、それなりに普段どおりのじいちゃんが寝ていて、意外と大丈夫やんけ、と安心した。叔母ちゃんがじいちゃんの足をこそぐって無理矢理起こしていたりして、なかなか愉快だった。本人からしたらめんどくさかっただろう。おかんが坐骨神経痛とかで、杖ついて歩いてた方が心配だった。
 特養の駐車場から、大きな枝垂れ桜が見える。その桜が見れるといいねぇ、と話していた。さすがに毎回三重まで往復することもできず、3月に入って1回パスした。この土曜日には、顔を見に行くつもりで予定を立てていた。1日、間に合わなかった。

●◯。。。...

 訃報を受けて、とりあえず上司に報告。金曜のうちに片付けられる仕事は片付けて、バタバタと準備した。香典と、喪服と、宿泊の手配と、足りないものをどこで調達するか。なんとなく準備するのが嫌で、手をつけていなかったから、余計にバタバタした。白シャツと黒ネクタイは行きがけに買うことにした。
 翌日、実家に着いたら、床の間にじいちゃんが横たわっていた。まずは顔を見て、拝む。ばあちゃんが傍らに寄ってきた。死んだってことが受け入れられんでな、と。この人はいつまでもこのまま生きとると思っとって、と。金曜の夜は寝られなかったらしいと、後で聞いた。特別仲がいい夫婦だった気もしないが、やはり、長年の付き合いだ。積もり積もった感情があったのだと思う。湯灌が終わって、じいちゃんの顔を拭いたとき、ありがとう、と呟いたばあちゃんは、いつもより小さく、まるまって見えた。ばあちゃんも90歳。この歳で喪主をするとも思ってなかっただろう。

●◯。。。...

 あまり、葬儀の経験はない。父方の祖父が亡くなったのは、たしか高校時代だったので、もう20年近く葬式を経験していない。考えてみれば、ありがたいことだ。今はもう、家で葬式をするということもないらしい。今回も、ホールでの家族葬だ。その代わりなのか知らないが、葬儀ホールに向かう棺の見送りには、近所の人々が集う。
 事前に出棺の時間が伝えられていたのだろう。20人とか30人ぐらいが家の前に集まっていた。もうこの家に帰ることはないのだなと、思わされる。午前の雨があがって、曇り空。促されたばあちゃんが挨拶する。ありがとうございました、あの人は幸せでした。どうぞ笑って、送ってやってください。霊柩車のクラクション1度だけ、ちょっと長めに響いた。

●◯。。。...

 葬儀ホールでは立派な祭壇が待っていた。この辺り、葬儀屋さんって凄いんだなと思わされた。ビジネスなんだから当然でしょとは言われるものの、昨日の今日でこれだけ生花を集めて整えるのは大変だろう。十人程度の小さな通夜・葬式には不釣り合いなほどに華やかな祭壇は、ばあちゃん曰く、あの人への最後の贈り物、だ。結構値の張るものだったっぽい。そうだろうなぁ、と思った。
 通夜の夜も線香は絶やしてはいけない。守り役として、叔父叔母夫妻がホールに泊まり込む。そういうことも知らなかった。線香も蚊取り線香みたいにくるくる巻いているやつがあるらしく、それつけとけば一晩ぐらいもつからいいのだそうな。便利なもんで。宿泊室も広くて綺麗で、下手なホテルよりも豪華だった。習俗に合わせて、今のライフスタイルに応じて、ちゃんとカスタマイズされていた。知らないことは多い。
 通夜を終えて、おかんとばあちゃんを家に送る。ぼくたちは街の方のホテルにて一泊過ごす。なぜか近場が空いていなくて、かなり遠くのホテルになった。泊まれたのに、とばあちゃんがつぶやき、どうなるかわからんやったやろ、とおかんに窘められる。確かに、昨日時点では何も決まっていなかった。速い。昨日が遠い。

●◯。。。...

 翌日はホールでの葬式からはじまる。故人のライフストーリーとのことで簡単なスライドショーが流れたりして、なんか結婚式とおんなじことをしてるなぁ、と思う。BGMは小田和正である。定番を外さない。演出って大切だ。
 ホールからの出棺前に、最後のお別れがある。棺を開けて、花をたむける。というより、ほとんど花で埋め尽くす。最初のうちは神妙な面持ちで花を入れていたみんなも、後から後からどんどん花が出てくるので、手がはやくなる。ばあちゃんは、顔のあたりで、じいさんこれ薔薇な、これは蘭やな、と説明していた。胡蝶蘭、じいさん好きやったやろ、と語りかけ、最後の最後に血脈譜という御札を入れる。最後はつれあいが入れたでな。ばあちゃんが、そう呟いた。
 斎場に移る。火葬に入る前に、もう一度、ひとりひとり顔を拝む機会があったが、そこでもばあちゃんは棺を離れなかった。順番に最後のお別れをする親族の傍らで、ずっとじいちゃんの顔を見ているようだった。

●◯。。。...

 正直なところ、骨を見るのは怖かった。人だったものが、明らかにそうでなくなる。それを受け入れられるか、自信がなかった。だけど、骨拾いはあっけなく終わった。火力が強いからなのか、いわゆる骸骨みたいなものはなく、もうほんとに残骸だった。もしかしたら、スタッフがあらかじめ崩しておくのかもしれない。じいちゃんらしさは消え去った。
 昨日とは違って、突き抜けるような青空である。骨をお墓まで運び、納骨する。雨でなくてよかった。日差しが強く、暑いぐらいだった。分家で、一代限りと言っていたお墓は、2~3年前に用意したとかで、まだ新しい。葬儀屋さんはおらず、若いお坊さんもたどたどしい。みんな不慣れながら、お経をあげて、遅れてきた花で飾る。ちょうどお墓に来ていた地域の人が遠巻きに、ひっそりと拝んでくれていた。ありがたい。
 お寺に行って、またお経をあげる。初七日法要もやってしまうってことで、お墓でもお寺でも、お経は2回ずつだった。昔はお墓、お寺、お墓、お寺と往復してやってたとか聞いた。それは大変だったろうなぁ。

●◯。。。...

 実家に戻ったら、どっと疲れが出た。おかんとばあちゃんは、まだお返しがどうとかでバタバタしている。実家に泊まっていく話もあったが、疲れて相手できないから帰ってほしいとのことで、しばらくお茶してから帰路についた。長距離運転はさすがにしんどく、途中でホテルでも取って泊まったらよかったかも、とか話しながら、無事、帰宅した。

 じいちゃんが信心深かったのかどうかは知らない。なんか、お遍路さんを歩いていたり、お寺かなんかの役で、大晦日の夜にどこかに行っていたりしたような記憶はある。その影響なのか、よくお寺の掲示板なんかに貼られている言葉が、部屋に貼ってあった。いつ死んでもよし、いつまで生きてもよし。何故かずっと頭に残っている。じいちゃんぐらいの歳になると、そういう心境なんかもなぁ、なんて考えていた。
 帰省すると、片手を上げて、よっ、と笑う、可愛い系のじいちゃんだった。よく働き、畑仕事をし、役目を引き受けた人で、孫にはやさしかったけど、頑固だったという。しっかり生きた。与えられた務めを果たすように、生きられるところまでしっかり生きた。生を全うするって、こういうことなのだろう。
 おつかれさま。ありがとう。
 じいちゃんの冥福を祈る。



m(_ _)m