meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

ヘンタイが犠牲者を生まないために。

 こんにちは。kimuraです。久しぶりにカフェなんぞに来て、この文章を書いています。なんだか世界一だったか、日本一だったかのバリスタの店が近所にありまして。とりあえずブレンドを頼んでみたら、すんごい飲みやすくて爽やかです。意外とこんなお店もある松江。だいぶと洒落てます。
 さて、そんなシャレオツなカフェで、先ほどまでヘンタイヘンタイとノートに書きつけておりました。若干、店員さんの目線が気になりました。なぜそんなことを書いていたかというと、ここ1年ぐらいずーっと考えていたテーマだからです。要はこの記事のタイトルの通り。ヘンタイが犠牲者を生まないために、一体どんな打ち手があるのか。そんなことをちょいちょい考えています。

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 ヘンタイといっても、変態ではありません。げへへって感じで女子高生を追っかけてるような人のことではありません。社会一般に理解されないようなことにいともたやすく立ち向かい、いつの間にやら事業を立ち上げてしまうような人のことです。周りからすれば「なんでそんなことするの?」って理解不能なんだけども、無茶な領域にえいやっと飛び込んで解決策をつくり出してしまうような人のことです。いわば、スーパーマン。正義のヒーロー(でもあんまり報われない)です。
 社会起業的な文脈の中では、こういう人のことを社会起業家とも言います。じゃあ、社会起業家って言えばいいじゃん!ですね。その通りかもしれません。でも、楽しいからヘンタイって言います。シャカイキギョウカなんてカッコイイ言葉よりも、ヘンタイっていう怪しくて泥臭い言葉の方が似合ってるなぁ、なんてわたしも思っているからです。ヘンタイ的知性の方がおもろくて魅力的なんです。たぶん。

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 このヘンタイは、ある意味でテンサイです。一般的な価値観にとらわれず、ぐいぐい行動していく力に溢れています。凡人から見れば、その発想はクリエイティブで豊かです。そして、そんな思考モデルを持つがゆえに理解不能でもあります。
 ここで考えたい「ヘンタイの犠牲者」とは、そんなヘンタイの描くビジョンに「いいね!」を押して入っていったのだけれども、その理解不能さに翻弄されてしまう人のことです。「ヘンタイフォロワー」と名づけてみました。ひどい場合は、ヘンタイフォロワーは心身ともに潰されてしまいます。このヘンタイとヘンタイフォロワーの関係をいかに描くか。そんなことを常々考えています。

 実は、ヘンタイの犠牲となったヘンタイフォロワーは相当数いると、わたしは思っています。しかも、これからさらに増えていくのではないか、とも思っています。それは、この問題が個人の資質に依存しないものだからです。いや、まぁ、ヘンタイやヘンタイフォロワーの資質によるっちゃよるんでしょうけど、それを言っちゃあおしまいです。「お前が悪い、精進せよ」で片付くならこんなに考えません。おそらく、社会とか文化とか環境とか、そんな漠然とした何かが裏でうごめく問題なのです。そうに違いありません。たぶん。

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 では、ヘンタイとヘンタイフォロワーの間に「理解不能」が起こるメカニズムはどうなっているのでしょうか。一般的に語っていいものやらわかりませんが、ひとつの仮説は立ててみました。「ヘンタイ肥大化仮説」です。あくまで仮説ですので、ヘンタイの方、気を悪くされないように。


 ヘンタイは独自の世界観をもっています。これがヘンタイの強みであり、弱みです。当然、一般社会の中ではどこか浮いた存在です。理解ある環境で育っていないと、どこかしらにコンプレックスを持ってしまいます。これがヘンタイの悲しい性なのでしょう。
 このヘンタイが、社会に違和感をもって何かを言い始めると、徐々にヘンタイフォロワーが集まり出します。ヘンタイの描くビジョンとか発想は、やっぱり稀有で貴重なものなのです。ヘンタイフォロワーは、違和感を持ってはいるけども、今の社会にも馴染めてしまうような、中途半端な状態にいたりします。なので、ヘンタイさん、それ、いいね!と言い始める。じゃあ、やってみるか、で活動や事業がはじまります。
 最初はヘンタイも慎重です。やっていることがいいことなのかどうか、不安がつきまといます。謙虚な姿勢がまだある時期とも言えます。一般社会への憧れのようなものもあるかもしれません。しかし、事業が軌道に乗りはじめると、状況は変わってしまう。ヘンタイは、ここで遂に「社会に受け入れられる」のです。
 事業がうまくいけば、普通の人でも少しは傲慢になるものだとは思います。ただ、ヘンタイの場合は少々事情が違います。コンプレックスがあった分、「ほら、僕が正しかった」になってしまう。自分の違和感、考えていたこと、正しさが社会の中で証明される。これが社会に対する感謝になればいいのですが、自分の力を過信する方向で現れると手がつけられません。
 普通の人とは違う思考モデルを持っているヘンタイが、自分の思考を確信したとき、周りの人間はそれに関わることができなくなります。うまくいったがために、凹んでた分が出っぱってしまう。ヘンタイの世界観が異常に肥大化してしまうのです。
 あとは、それに飲み込まれるヘンタイフォロワーがいるだけです。ヘンタイフォロワーは、半分ぐらいは一般社会の価値観に足をおいています。意外と普通の人です。そんな人が、特殊なヘンタイ世界に巻き込まれるのですから、たまったものではありません。
 ヘンタイに「なんでこれができないの?」と言われはじめたら、黄色信号かも、と疑っていいと思います。ヘンタイ世界では当然できることであって、一般社会では当然できないことかもしれないからです。謙虚なヘンタイは、一般社会でなぜできないのかを学ぼうとします。肥大化したヘンタイは、なぜできないのかが全くわからないといった様子になっていると思います。既に自分の世界に浸かりきっているのです。

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 ただし、ヘンタイが謙虚であればいいというものでもない、という事実がコトを複雑にしています。ヘンタイは、ヘンタイ的独自世界を持っているから強いのです。ヘンタイ発想を止めてしまっては、ヘンタイがいる意味がなくなってしまいます。
 一般社会に馴染めないことがヘンタイの武器です。この武器を活かさなければなりません。それがヘンタイフォロワーの役割でもあります。さて、どうするか。そこがわたしにはまだわかっていません。
 適度にヘンタイフォロワーがヘンタイを否定し続ける「ヘンタイ飼い殺し戦略」とか、ヘンタイを上から抑えつける「フェロー圧力戦略」とか、考えてはみるものの、実践で試したりできないのでどうしようもないのです。(こう考えると、株主への責任を負う株式会社って制度はうまくできてるなぁ、などとも思います。上から圧力がかかるのでそこまで暴走できない仕組みなのではないかと)

 「ヘンタイ肥大化仮説」から考えれば、肝はヘンタイがバランスのいい自己肯定と自己否定を保つことです。それには、ヘンタイの生育歴を見直す必要があるのではないか、そんなことまで考えてしまいます。「me編」ですね。コンプレックスも含め、自分のクロニクルを再編集しておくことができれば、肥大化予防になるのかもしれません。

 とはいえ、仮説です。そして、これから多くの犠牲者が出るだろうという予測です。個人の資質の問題にしてはいけないという危惧です。
 大学という場にいても、研究者というヘンタイにどう動いてもらうか、という問題に出くわしたりしています。単なるヘンタイ放牧ではない、ヘンタイとヘンタイフォロワーのいい関係づくりのヒントはないか。そんなことをちょいちょい考え続けてみようと思っています。


m(_ _)m