meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『抑圧のアルゴリズム』サフィア・U・ノーブル

 『抑圧のアルゴリズム』を読んだ。検索エンジンも、メディアだったのだなという、とても当たり前のことを見逃していた。そうか。Googleだって、純粋無垢なエンジニア集団じゃないのだ。ITの、シリコンバレー的な、オープンで多様で自由な価値観も、ひとつの文化であって、ひとつの文化でしかないのだ。
 検索エンジンにだって限界はある。そんなことを考えさせられた。

●◯。。。...

 本書は「黒人の女の子」をGoogleで検索するところから始まる。10年ほど前のGoogle検索の結果には、ポルノや差別的表現が並んだらしい。人種主義、レイシズム。これは、日本人のぼくには到底わからない感覚なのかもしれない。しかし、アメリカにはそれが厳然として存在するものであって、決して過去のものではない。むしろ、最近は少し激しくなってきている感じさえあるという。白人至上主義でもあり、有色人種なんて言葉が使われる。時代遅れも甚だしいなぁ、と感じてしまうが、いや、現在なのだ。
 検索エンジンの中身をみることはできない。ただ、おそらく、少なくともぼくは、そのアルゴリズムの「公正さ」を信じていた。検索結果の上位に差別的表現が並んだり、検索キーワードのサジェッションにひどい表現が出てくるのは、きっと、社会がその検索を望んだのだ、と、考えていた。アルゴリズムが歪んでいるのではない。社会の側が歪んでいるから、それをそのままアルゴリズムが反映しているのだ、と。
 ただ、どうだろう。ここで考えなければならない論点は2つある。1つはアルゴリズムが本当に歪んでいないのか、修正できないのか、という問題。もうひとつは、そのような検索結果が公正であったとして、それでも差別的な検索結果を表示していいのかどうか、という問題である。

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 実際、Googleの検索ってのはどうなっているのだろうか。中はわからないけど、その状況を推察することはできる。まず、Googleは民間企業である。広告を主な収益源にしているらしい。アドワーズの仕組みはクリック課金であって、であれば、クリックされなければGoogleの収益にはならない。では、その広告出稿は検索結果に影響しないのだろうか。言われてみればの話だが、真実がわからないから否定のしようがない。広告出稿と、その広告のリンク先を、Googleが見ていない、とは思えない。
 これは、別に検索連動型広告に限った話でもないだろう。SEO検索エンジン最適化)は既に産業のひとつだろう。検索エンジンアルゴリズムには、少なからずビジネスが絡んでいる。Googleアルゴリズムを歪めているとは思いたくはないが、SEO産業からの、何らかの圧力や影響を受ける可能性もあるのである。
 もうひとつ。本書に出ていた話で、納得せざるを得ないものがあった。国による検索結果の規制である。詳細はうろ覚えだが、ドイツだったかフランスだったかで、ネオナチズムに関する検索に規制をかけているというようなことだったかと思う。検索の規制ってのは、実際今もあるものだろう。例えば、今、「黒人の女の子」と検索してもそれほど差別的な表現が並ぶことはない。と、思う(日本で検索しても検証はできない)。と、いうことは、Googleはあるテーマに関して検索結果を調整できるハズなのである。著者からすれば、できるのにやってない(やってなかった)、なのだ。これは確かに、Googleの責任なのかもしれない。

●◯。。。...

 さて、では。アルゴリズムが正しかったとして、それでも差別的表現が上位を占めてしまったとしたら、それをどう捉えたらいいだろうか。これは、相当に難しい問題だなと思った。状況を放置しておけば、差別的な価値観が再生産されてしまう。人間、妙なもので、検索上位に示された情報は信頼できるものと勘違いしてしまうものなのだ。
 これは、無意識に染み込んでくるタイプの情報で、厄介な偏見を生み出してしまう。大手マスメディアであれば、建前ではあっても、ジャーナリズムを謳い、中立性を意識する。もしくは、偏っていることをみんなが知っている。だから、情報の受け手はある程度のテイストを差っ引いている。朝日新聞だからこういう書き方になってるなぁ、とか、そういう読み方ができる。
 しかし、Googleをそんな目線で見る人は、きっと少ない。Googleだから、こういう検索になるよなぁ、なんて言ってる人を、ぼくは見たことがない。だいたい、検索エンジンなんて、もうGoogleが独占しているようなもんだから、比較のしようもないのである。
 これはやっぱりかなり危機的状況で、Googleの自制に頼るしかないように思えてしまう。

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 著者は公共政策で規制をしていくべきだと述べているし、公共的な検索が必要だと言われている。もっと言えば、倫理的検索が必要なのだ。それはフェイクニュースを除外するような正確性とは、また違う、差別、偏見、分断などなどを是正する検索である。なかなかに、難しい。
 つまるところ、蓄積されたデータは蓄積されたデータの方向にしか動かない。あとは、その大量のデータの、どこを見せていくのか、どこを負の遺産として、どこを活かしていくのか。その材料集めと調理方法の方針は、ぼくたちが考えていかないといけないのである。
 とりあえず、検索結果を疑う、検索では見えないものを見ようとする。そういう意識をしていかなければならぬのだな、と、強く思わされた。



m(_ _)m


異動になった。

 異動になった。やっと、という感じ。今のところに来て、3年、いや、4年か。なんて長い、長い時間だった。そんなにひとつのところにいたのは、初めてである。人によるし、性格によるけど、ぼくの場合は、まぁ、停滞する。同じ業務ってそんなにないんだけど、それでも、同じ環境につかってしまって、凝り固まってしまったなぁ、と思う。今のぼくは、きっと視野が狭い。どんな形であれ、ひとまず次の展開が持てたのは、ありがたいことである。
 そんなこんなで、ここ最近は、片付けしたり、引き継ぎしたりをメインに据えて動いている。かなり前から、ちょっとずつ、こっそりと異動の話は出ていたから、まずまずの事柄は既に引き継ぎ済みだなぁ、なんて考えていたが、そんなこともないのが引き継ぎってもんであって、そういえばこれもあったし、あれもあった、なんてことになってくる。
 大概、完璧な引き継ぎにはならない。ちゃんと穴があって、その穴を埋めていこうとして後進が育っていくってのが、ひとつのパターンなのかもしれない。後進が育ってきているのも、ありがたいことである。同じことができなくても、まぁ、なんとかなる。それが組織のいいところだろう。

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 異動なので、退職ではない。今までこういう場面ではだいたい退職だったので、ぼくの異動は珍しい。異動するという話をすると、ちょいちょい人が驚いてくれる。中には「えー、いなくなるのー」と悲しんでくれる人もいる。退職じゃないのに、退職っぽいなぁ、と思いながら、そのリアクションに感謝する。少しは何かできてたから、そういう反応をしてくれるのだろうと、思う。
 当然、幾人かは、ぼくがいなくなって内心すっとしているのだろうけども、それもまたそれで人間らしい感情であって、ぼくの目に入らなければ、好きにして貰えばよい。今のところ、いなくなって嬉しい系の感情を表現しに来る人はいないので、それはそれでありがたい。
 自分も含め、人間の感情ってのはややこしいので、めんどうである。

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 新しい環境がどんなところなのか、何をするのかは、まだ見えていない。いや、おんなじ職場だから、少しはわかるのだけれど、少ししかわからない。隣は何する人ぞ、というのは、どこの会社でも起こるものなのである。自分の範囲しか見えないし、他の人の範囲まで見たり踏み込んだりもしたくない、ってのも、ある。
 年齢を重ねてくると、新しい環境に向かうのが億劫になるとも聞くが、ぼくの場合はどうだろう。4月からの領域を、ぼくがどう感じるのか、もの覚えのスピードがどんな風なのか、その辺りの、自分自身の反応をみるのも、ちょっと楽しみである。

 今年は2月が暖かく、3月が寒かった。月末になって、ようやく、春めいた気候が戻ってくるようである。桜がちらほら咲きはじめている。これから、いい季節になる。晴れる日が多いといいなぁ、と思う。



m(_ _)m