meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

「考える技術」について考えてみた


【 書き散らしながら考えてることがちょくちょくあります 】


 最近、ちょくちょく「考えること」について考えていました。って、なんかすごくややこしい言いまわしになってますが(笑)なるほど、なんか。考える力はこれからを生きる私たちにとって大切な気がします。職場で、プライベートで、考えることはたくさんあります。「この書類をどう整理しようかしら?」ってことから、「これからの自分の資源をどの分野に投資していくべきか?」ってなことまで、人という存在は常になんだかんだと考えています。ほんでもって、なんだかんだとクリエイティブさが求められてくる時代なんです。
 ただ、この考えるという行為に関しても「 技術がある 」って感じたことはあるでしょうか?日常的に行なっているからこそ、あんまり意識してないのかもしれません。そんでも、しっかり考えるためにはある種のコツ的なものがある。それを技術と言ってしまっていいかどうかはわかりません。だけども、何らかの役に立つ気がするので、考えるってコトに関して個人的に意識しているコトをいくつかまとめてみました。


■ 人と話す ■

 「 考える、は自分ひとりで行うものだ 」って思っているとすれば、それはすごく勿体無いことだと思います。経験的に言えば「 人と話しながら考えるってのはかなり効率のいい思考方法のひとつ 」です。なんらかのテーマについて深く掘り下げるときに、話し相手になってくれる友達がいるのはすごくありがたい。ふっとアイデアが思い浮かぶ確率も、会話中には高くなります。
 これは、会話することで情報が動いているからだと思っています。考えるって行為は、自分の頭の中にある情報を動かすことです。これを独りで動かそうと思うと、すんごいしんどい。知っていること、知識は、普段かたまっていて、やたらに腰が重いのです。人に話すこと、人に聞かれることで、頭の中の情報を引っぱり出してきて、動かす。そうすると、そこに価値が生まれます。この情報を動かすことを、考えると呼んでいるような気がするのです。

 あ、ちなみに。もちろん、話し相手によるし、話題や状況によりますのであしからず m(_ _)m


■ 問いを投げかけておく ■

 「人と話す」が効率のいい考え方である理由のひとつに、質問が投げかけられるってことがあります。この「 問い 」が果たす役割は非常に大きい。

If I had an hour to solve a problem and my life depended on the solution, I would spend the first 55 minutes determining the proper question to ask, for once I know the proper question, I could solve the problem in less than five minutes.

ってアインシュタインも言っています。よい問いの投げかけがよい思考を開始させるのです。
 さて、ここでも、大きな勘違いがある気がします。「 問いが投げかけられたのだから、その場で答えを出さなくてはならない 」と思っていませんでしょうか? これも個人的に言えば、あまりよくない考え方です。何か理論で説明できるわけではありませんけども、その場で明確な答えを出していくと、だいたい、ツマラナイ解答、教科書的解答になりがちです。それはあんまりおもしろくない。
 知的体力は宙ぶらりんに耐えられる力であると考えています。問いの解答が出せなくて落ち着かない感じに如何に立ち向かえるか。曖昧な問いに対して、腑に落ちない回答しか出せないもやもやを抱え続ける。それ自体が考えるってことではないでしょうか。
 だから、投げかけられた問い、自分で設定した問いに関してスグに回答をする必要はありません。問いを大切に持ち続けていれば、そのうち頭がぐるっとまわって、ポンッと何かが出てきます。

 たぶん (;・∀・)

 その場で明確な答えを出さなければならない、って場合には使えませんけどね。


■ インプットとアウトプットを普段からしておく ■

 自己流の話が続いたので、最後に少し普通の話をしておきます。まずはインプットです。本を読んだり、映画を見たり、動画を見たり、街へ出たり、人と話したり。なんでも構いません。インプットをしておきましょう。そんで、それらを「 インプットだ 」と思っておきましょう。そう捉えておくと、例えテレビゲームであっても、自分の思考に使えるものになっていきます。
 このインプットがないと(おそらく人間の原理的に)考えるってことはできません。インプットは家を建てるときに使う材料みたいなもんです。柱や床材がなければ、建てようにも建てられません。そして、できるだけ多様な材料をたくさん用意しておけば、いろんな家が建てられます。当たり前のことですが、意識していないとスグ材料不足になってしまいます。
 ほんでアウトプットしておきます。これは建てる練習ですね。なんだってエクササイズを積んでおかないと本番には対応できません。文章でも、会話でも、絵でも、これもなんでも構わないと思います。で、こちらも同じく「 自分の考えをアウトプットしているんだ 」って自分に言い聞かせておくとさらにいいんじゃないでしょうか。
 インプットに比べて、アウトプットは辛いです。まとまらないし、なかなか納得のいく形になってくれません。それでも、まぁ、仕方がない。既存の型にとらわれているから、わかりやすく、キレイになっているもんです。新しい発想はグッチャグチャの中から生まれてきます。まとまってないものを晒しておけるからブログっておもろいんじゃないか、とか開き直って出していくしかないでしょう。かくいう私もここに書いたことに責任なんて持てませんからね(笑)





 さて、ここまで強烈に自己流な「 考える技術 」について書いてみました。で、書いてみると、こういうこともやっぱり学校教育では明示的に学んでないんじゃないかなぁ、って思いました。コミュニケーションの技術とか、意思決定の技術とか。生きるのに直結するんじゃないかってことがわりと見逃されている気がしてしまいます。私は教師ではないので、はっきりとしたことは言えませんけども。
 国語や、社会や、数学などなどで事例的に学びながら、少しずつ、私たちは技術とか方法を取り入れてきたんだと思います。それは無意識的に身につけていくもので、改めて技術として捉え、学ぶ必要はないのかもしれません。だけども、その技術を意識せずに、大学へ行って研究できずにつまずき、社会に出て「自分で考えろ!」と怒鳴られているのであれば、それは何だか哀しいことなのかもしれません。
 ツルツルの壁を登れったって無茶な話。方法や技術はツルツルの壁に足場や手がかりをつくってくれます。そんなわけで、誰か私に恋愛する技術を教えてくだ(ry



m(_ _)m