meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

3月11日だから、右にならえで何か書いてみる

 朝から何か変な雰囲気に包まれていて、頭はどこかに因われていたようだった。3月11日はそういう日になったのだろう。朝の通勤バスに揺られながら「 どうやって黙祷しようかな 」とばかり考えていた。( もっと他に考えなきゃならんこともあるだろうに。。。(;・∀・) )
 東日本大震災の発生から2年である。2年も経てば、どこか薄れるものだな、と感じる。震災後1年は盛り上がった。日曜だったこともあって、どこもかしこも震災1年イベントだったような。そんな1年前の3月11日は山下達郎のサンデーソングブックを聴きながら、黙祷を捧げた。家で独り、ゆっくりとしていた。震災から1年を迎える、その感覚をあまり他人と共有したくなかったからかもしれないな、と今になって思う。言葉にすることで、他人に晒され、編集されることで、損なわれてしまう経験ってのは、非常に非常にたくさんあるものなのである。



 震災から2年経って「 何をしてきたのかな? 」とか、考えている自分がいる。もちろん「 何もしない 」が信条の私である。そんな問いに対しては、もちろん「 何もしなかった 」が正解になるんだろうし、実際にも私は何もしていない。( 寄付とかしたっけ?たぶん、ちょっとはした )ただ、こういうのは気にしていることだったり、気にする機会だったりが大切なんだろうと思う。黙祷して何かの効果があるとは思わない。そんでも、何かしらの意味はあるんだろうな、と思うのだ。
 振り返ってみると、ああ2年が過ぎたのだな、と感じることができる。その期間で、自分が見つめ直される。「 復興ってどういうことなんだろうかな? 」とか考えることができる。当時のことや、被災地のことに想いを馳せることができて、震災つながりで阪神大震災のことにも行き当たる。そういうのをひっくるめて「 供養 」と言うのではないだろうか。仏教にはあまり詳しくないので、供養の意味を知ってはいないのだが。

 何も、被災地への支援のため、とか、記憶を風化させないため、とか、そういうののために黙祷を行っているわけじゃあるまい。だいたいの場合、目的があってそれを達成するために行為があると考えられがちだけども、行為があって、ただそのことだけに意味がこもっているような、そんな感じになることもあるんだと思う。型が大切になること、形式が本質に優先されることも、実は多かったりするだろう。
 だから、こういう日は何よりもまず「 思い遣る 」ことが大事なんだろう。何もしなくてもいいけど、思いだけは、少し遣わしてみる。変な気をまわさず、他ごと考えずに、すーっと向こうに寄っていって、すぐ日常に戻してくる。こーゆーのは、スピリチュアルなのかもしんないけど、そこに何かあると思ってやっておいた方がいい。そして、これは私の性格が天邪鬼だからかもしれないが、「 〜のために 」って目的は、こういう行為においてすごく無粋にみえてしまうのだ。

3・11後、それまでの日常が揺さぶられ、壊された。私たちは、「生きる意味」ではなく、「生きること」のほうが大事だということを思い出した。

下り坂では後ろ向きに 静かなスポーツのすすめ 丘沢静也


 あの怒涛のような熱狂がだいぶ遠ざかった。正しさへの圧力が低下して、やっとこさ、東日本大震災を感情的に見ることができるようになるのかもな、とか、感じている。



m(_ _)m