meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

満足に書けてもいないし、読めてもいないものなのだ


【 撮れてもいない。。。(;・∀・) 】

 あまり考えたくないことではあるものの、テキストは誤読の危険性を常に孕んでいる。つい先日もどうやらわたしの文章がわたしの意図する文脈から切り離されて解釈されていたということがあったようだ。そんな事態に巡り合うとこのようにつらつらとテキストを書き綴ることへの無力感に囚われてしまう。
 「難しい漢字が入っているテキストは絶望的に内容を読まれない」と誰か有名な人が言っていたような気がする。SNSがこれほど一般的になり、テキスト文化が浸透している現代にあって、個々人のテキストに関するリテラシーばかりがおいてけぼりになってしまっている、と言い切るのは悲観的に過ぎるだろうか。


 そもそも、書き手として誤読に関する覚悟は持っていたつもりである。テキストは書かれた瞬間に書き手のコントロールを離れる。これはもう手の出しようのないところに行ってしまう。どんな名文を書いても、読み手に届く状況、心情、思考などなどによってメッセージは歪められる。これは文豪であろうと、優秀なビジネスマンであろうと同じことである。
 ビジネス的な文章で「結論」の明確さを求められるのはテキストというものが曖昧であるからだ。曖昧な手段を使っているがために、どうにかそれを一意のものに、Aという情報がAという情報のままに伝わるように工夫しなければならない。解釈の自由さに流されないように、明確に、論理的に、枠にはめて伝えていく。わたしはそれがビジネス文であると思っていて、ゆえに、それは窮屈である。書くに窮屈、読むに窮屈であるけども、伝達を主な手段としているのでそれは仕方のないことなのだ。
 だからわたしは自由な表現ができる場所を望む。このブログにおいても結論がどうとか、補論がどうとか、そんなことを考えたことはない。いつも書き下しであり、長々と書いているくせにまとまっていないのにはそういう理由がある。これはビジネス文章ではないし、一意のメッセージが伝えたいわけではない。自由な解釈によってそれぞれが考えてくれればいいのである。どう読まれるにこだわるつもりはないし、レトリックとしての誇張や強調はあるものの、結論を明確に示すってことはしていないつもりである。

 テキストとはそういうものである。書いたからといってメッセージが一意に定まるものではない。そんなことは、高校生でもわかっている、とてもとても当たり前のことなのである。そして、わたしたちは読み手になったときにこの前提をすっかり忘れてしまいがちである。


 書き手の人口に対して、読み手の人口は非常に大きい。書き手はいわば生産的な立ち位置にあるので、テキストに思い切り向き合い、その特性を肌感覚でわかるようになる。対して、読み手は消費的な位置にあり、自由奔放に、テキストを読み漁る。正しい読み方などあるわけもないが、その正しい読み方があるやないやもわからないうちに社会に放り出されて、自己流のやり方で読み続ける。消費社会において「お客様は神様です」という妄言の流布が誤りであるのと同様に、テキスト世界において「読み手は神様です」というのは大きな間違いである。にも関わらず、わたしたちは日々接するテキストにおいて、うん、結論はこれだな、などと一意のメッセージを引き出そうとしている。その方が安心だからなのかわからないが、なぜかひとつの意味に決めつけてしまう傾向にあるようにみえる。
 もちろん、これは非常に危険な読み方である。独善的な読み方と言ってもいいだろう。自分の都合のよいようにテキストを解釈し、その解釈の文脈に則ってテキストを利用してしまう。とても視野の狭い読み方なのだ。

 書き手への敬意がないのであれば、その読み方でもいいのかもしれない。敢えて言えば、自分勝手に読み、自分勝手に利用する態度であるが、まぁ、そんな人がわりとたくさんいてしまうこと自体への諦念はある。でもやっぱり「その程度の読書体験でいいのか?」とは言いたくなってしまう。
 師弟関係の中では、弟子は師匠から教えられなかったことも学ぶという。師匠の言葉、師匠の動作、それら全てに意味があるように思えてくるのが弟子のマインドなのだろう。「あれは、こういう意味なのかもしれない」と推測することに弟子の弟子たる所以がある。逆に言えば、師弟関係にはその推測を引き起こさせるぐらいの敬意が必要だったりする。
 テキストを読むというのもこれと同じなのではないか。言外のメッセージも含め、このテキストはこうも読めるし、こうも解釈できる、と複数の読みを想定しようとする。もしくは、わたしの読み方では捉えきれないメッセージが必ずある、と思って読む。実際、必ず読み切れていないところはある。自分の理解力をそれほど信用しているわけではない。

 こういうふうに自分の視野外の世界が存在することをわかって読むのと、わからずに読むのでは読む経験の質がまったく違ってくる。自分の視野外があるハズだと意識して読みはじめると、途端、本当にこれで正しいのか、自分の解釈は間違っているのではないかという不安に苛まれることになる。不安定なので、どこかに安定したいと答えを探すことになるが、やはりその答えは視野内にしか見つからない。なので、落ち着かなくなる。ぐらぐらする。それでも考えを巡らせることをやめることができない。
 この状態が知性である。知的体力とはその不安定状態に耐える力のことである(と、内田樹さんが言っていた気がする)。AはAである、という知識をそのままにしておくことは知性とは言わないのだ。自分の知識が本当に正しいのかどうか、Aは本当はBではないのか、その可能性を信じている状態が知的というものだろう。そして、その可能性に囚われながらも実際に行動を起こしていくというのが、批判的実践者というやつだ。

 極端なことを言ってしまえば、自分の視野外を想定して読めない人は自分の知性を動かせていない。結局、全ての情報を自分の解釈のもとに回収し、収束させてしまうのであれば、都合のいいことしか聞けない人でしかない。果たしてそこに知性があるだろうか?
 脇目もふらずに一心不乱に雑音を華麗にスルーしながら進まなければならない時期もあるだろう。だが、わたし個人はそういう状態をよしとしない。それはわたしが研究者肌であるからなのであるけども、いい加減、これほどにテキストが氾濫している世の中において、読みに対しても、書きに対しても、その方法への意識が足りないのではないかと、思ってしまうのだ。

 もちろん、自戒も込めて。
 (つらつらと、愚痴みたいに書きなぐってしまった。。。)


m(_ _)m