meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

くだらない生産活動を続けていくのだ。

 椎名誠の『新橋烏森口青春篇』を読んだ。たぶん、再読である。高校時代ぐらい、2001年とかそれぐらいの時期には、よく椎名誠を読んでいた。実家の物置き(になっている乱雑な部屋というか家?)には、『哀愁の街に霧が降るのだ』なんかも紛れ込んでいるハズだ。捨てられてなければ。

 今回はKinoppyで椎名誠電子書籍化されてるのを見て、すぐさま飛びついた感じだった。「旅する文学館シリーズ」とか銘打って、『あやしい探検隊』なんかも電子書籍になっている。まさしくファン待望。わたしはこれを待っていた。だから、はやく『哀愁の街に霧が降るのだ』もおねがい。

◎。。。...


 椎名誠といえば、軽くて、オカシクて、妙に心地のよい文章である。なんだか淡々としているようで、大げさにボケることもないし、ドラマチックに急展開することもない。そのタンタンさがなんだか日常的でもあって、青春篇なせつなさをただよわせるから、ぼくは椎名誠の文章が好きなんだなぁ、と思う。ゆったりとしていて、斜に構えていて、旅っぽい。生き方自体もそんな感じなんだろう。

 改めて読んでみて、ぼくは『新橋烏森口青春篇』な世界観にひかれていたんだろうな、ということを思い出した。だらだら出社する、ブラブラと生きる、仕事はするけど、きちっと整えられるのはイヤだ。安月給で、安酒を友達と飲む。お昼休みには公園でバレーボールをするOLやサラリーマンを見て、切ない気分になる。それでもなんとなく気になる女性ができたりして、自分の中にある「こうありたい」みたいな漠然としたイメージを手がかりに、大切っぽいものを失わずに、生きていく。こういうスタンスにすごくシンパシーを感じてしまうのだ。
 そこには「効率化」なんて言葉はなくて、無為な時間や無駄な行為がわんさか出てくる。そーゆーのがいいのであって、そーゆーのがおもしろみであって、哀愁なのだろなぁ、などと考えてしまう。

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 そういえば、ぼくは今日から晴れて無職になった。やっとこさ所属がなくなり、今はまだ健康保険もない。ぼくを刺すなら今である。たいへん苦しむと思う。今でなくても刺されたらたいへん痛いと思う。って、それはともかく、ともかくも、無職になった。
 そんなことなので、一般的な感覚から言えば、こんな文章を書く時間があるなら就職活動でもしないさいっ、と言われる身分である。そんな身分でありながらも、こうしてくだらないブログを書いているし、懐かしい本を読んでもいる。投入している時間と労力は決して「息抜きにやっている」とは言えない程度である。無為な時間であるし、無駄な行為なのだけど、どうにもそれを辞めようにも辞めたくない意志が働いてしまう。青春って歳でもなかろうに。(;・∀・)

 書いてもアクセスが伸び伸びに伸びて、収益がでるわけでもない。誰かが見て大笑いするもんでもない。なのにやっぱりこういうくだらない生産活動は続けてしまうし、おもしろいのである。「無意味さがクリエイティブである」というのは、どうにもパラドシカルな言葉なんだけども、おそらくそれは正しくて、経済的にどう、お金が稼げる、それで食っていけるの、いや、食えないの、みたいな話を超えて、「あ〜〜〜、すんごいおもしろかった。なんも残ってないけど」っていう意味のない達成感を味わうには丁度いい行為なんだと、自分に言い聞かせている。
 そして、できれば、せーしゅん的には、こういった行為は独りでやるより、複数人でやった方が楽しいんだろうな、ってことはいつも感じている。思えばそういうことを、2〜3年前にはちょくちょくやっていたような気もする。

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 社会がなんだぁ、とか、起業がどうこうだぁ、なり、コミュニティがいやーん、ってそういうのも大事なんだけども、もっとくだらないことをくだらない人間なりにやってみようという気になってきた。知性はそういった方向に使われて、はじめて価値をなすのだとか、言い張ってみたい気分である。青くさい青二才でありたいのだ(世間ではそういうのを中二病というのかもしれない)。
 とりあえずぼくは、絶望先生のコスプレして「絶望した!」って言ってみたい。もう結構前からそれ言ってますが(笑)。コスプレっちゅうか、書生の格好してみたいだけなんですけどね。袴がたかいんっす。
 ってことで、知的にくだらなく遊んでくれる友達を、あいかわらずゆる募中です。



m(_ _)m