なんで、正義の話をしたがってるのか?
昨日久しぶりのSFCnagoyaで、大いに盛り上がった。
やはりこのコミュニティはいい。
みんながみんなの持ち味を出せる場だと、勝手に思っている。
さてさて、その中でも結構前から話題に出ているこの本、
『 これからの「正義」の話をしよう 』
みぽりんが立てた問い(確かみぽりんだったと思う)がおもしろかった。
「 なぜ、いまごろ正義の話なんかしたがっているのか? 」
そう、この本、どうやら結構売れてるようなのである。
どこの本屋に行っても、目にとまるし、だいたい平積みになっているのでは
なかろうか。私はまだ読んでないのだが、ただ単におもしろいから売れてる
わけでもあるまい。
読んでもいないのに、この本をめぐってあーだこーだ書くのもおこがましい
んだが、ちょっと大切な話っぽいので、書いておく。戯言である。ご了承を。
「 なぜ、今、正義なのか? 」という問いに真っ先に思いつく答えは、
規範が崩れてしまったから、であった。よく言われる話、価値観の多様化、
ライフスタイルの多様化ってことである。
この時代において、おそらく何が正しいのかわからなくなった人が
たくさん現れはじめている。
もうちょっと具体的に言うと、少数派、マニアック、変態、はぶけ者が、
仲間を見つけることによって生き延びていけるようになり、かつ、社会が
それを認め始めたかのように見えるのである。
これは、様々なコミュニティによって、これまでは反社会的・反主流と
みなされてきた思想が、つながりを持ち、肯定感を得て、その正当性を主張し、
お互いに認め合ってきているのではないか。
こんな社会において、誰かが、ある考え方をもったとする。
例えば、「 お金が貯まったら株式に投資すべきだ 」と考えたとしても、
それを咎めるものはいない。もっと究極に、「 自殺したい 」と思っても、
仲間が見つかってしまうような社会であり、止めるものも導くものもいない。
どっちに行ったらいいのやら。。。
「 若者が3年で辞める 」なんて、今では当たり前に近い。
むしろ1年で辞めた方がいいと思ってる人も結構いたりする。
これが規範の喪失。
正義の話をしよう、と言いはじめたのは、この喪失感に対して、より強く、
根源的な反応が出てきたのではないか。あっさり言うと揺り戻しではないか。
統一的な規範を否定してきたのは、他でもない我々である。
そいつがなくなって怖くなったから、もう1回考え直そうという、歴史は
繰り返す的何かであるが、事態はそう楽観視してもいられないようだ。
なぜか?
本当に規範を求め始めたのだとすると、大衆は(この言葉を使うと、まるで
自分は大衆の中にいないかのようだ)リーダーの登場を待っていると考えられる。
ここがまずい。
端的に言うと、今の状況はヒトラーが生まれやすいかもしれない。
価値観の変わり目で、かつ、大きな社会不安が起きたときに、狂乱は生まれる
のではなかろうか。
で、
待ち構えているのは、日本の財政破綻である。
そろそろメディアでも取り上げられつつあるが、2010年代後半から20年代
前半ではなかろうか。そこまで専門的知識があるわけではないので、当て
ずっぽうだが、そんなに外れてはいないと思っている。
昔ほど1枚岩なコミュニティではないので、扇動的なリーダーに大衆がビビットに
反応するわけじゃないだろうけど、正直、危惧はしている。
危機が訪れる前に、個々人が多様化を受け入れて、付き合っていく能力を
持たないといけない。
この『 これからの正義について話そう 』のブームが、
「 正義ぐらい議論できる力を持っておけよ 」というメッセージに
「 正義ぐらい議論できる力が欲しいのよ 」と、答えているのであれば、
ちょっとは安心できるのだけどなぁ。
まぁ、読んでないんでわかんねっす。