meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

昭和おじさんと思春期おじさん

 気がつけば、どっちを見てもおじさんばかりである。職場では昭和のおじさんが知ってか知らずか昭和の価値観を撒き散らしている。プライベートではおじさんが逃避行中である。今更思春期で、まぁ、そんなこともあるかとも思うが、正直、勘弁して欲しい。
 人間、いつまで経っても人間なわけだが、それでも年齢は考えた方がよいのである。おじさんならそれぐらいわかるものではないだろうか。

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 とはいえ、こんな愚痴を書いている自分もおじさんである。最近は周りと一緒に高齢化していくばかりで、いつまで経っても何となくワカモノな感じもあるけど、どう考えたって既におじさんだから、それは忘れちゃいけないと自分に言い聞かせている。転職サイトから流れてくる求人情報にはそれなりの数の管理職求人が混じっている。そりゃあ、そうだよなぁ、と思う。
 自分の価値観が徐々に、そして確実に、今の若い人たちとズレてきていることを自覚しなければならない。何をカッコよいと思うか。どういう行動が可愛いか。今のアイドルを見ていても、ちょっとついていけなくなっている。歌とかではなく、美的感覚がついていかない。この子がカッコいいんだろうか、と疑問になる。きっとカッコいいのだろう、と、間に解釈を挟む。年齢を重ねるとこんな感覚になるんだなぁ、と思う。
 この解釈がなくなれば、きっと昭和おじさんや思春期おじさんが出来上がるのだろう。現実と感覚の間に、ひと呼吸置けるかどうかが、境目なのだろう。
 それって、ちょっと寂しいことだ。現実の出来事と、ダイレクトにつながれない。身体的な、反射的な反応で対応すると、昭和が出てしまう。だから、ひとつ、挟む。それは瑞々しいものではないだろう。でも、大人ってそういうもんだ。自分の価値観を押し付けたり、自分の価値観に閉じこもったりするよりかは、まだマシだろう。

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 昭和のおじさんはがなり、思春期おじさんは逃げる。ぼくの身体も徐々に固くなっていく。行き着く先は老害なのかもしれない。いつまで柔らかくいられるだろう。その柔らかさはどうやって保つのだろう。どうやって測るのだろう。
 たぶん、やれることと言ったら、人生経験を積むぐらいのことだろうか。いや、それだけじゃ駄目な気もする。自分を広げる何かを続けていかないといけない気がする。少しずつでいいから、ストレッチしていきたい。



m(_ _)m