meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

データに騙されるな、と、データ至上主義

 データ至上主義の話を少し前に書いた。要はデータの権力が高まっているってことで、これは、なんだろう、科学って考え方が力を持っていった流れに似ているように考えている。データは事実だからコンセンサスがとりやすい。だから、そこをベースに語ろう、ってな話が出てきて、その姿勢が激しくなると、そこをベースに語らなければ意味はない、になる。ゆえに、データを扱えるかどうかが基盤になるし、データ自体が権力を持つようになる。
 そんなことを考えながら図書館をうろついていたら『統計でウソをつく法』が飛び込んできた。統計学の古典的名著である。そばには『データサイエンス超入門』。煽り文句に「嘘をウソと見抜けなければ、データを扱うのは難しい」とある。
 ちょっと、あれ、っとなった。確かにそうだ。ぼくたちはデータを疑っている。疑うべきだと散々教えられている。それなのに、データを信仰するようなことになるだろうか。と。

●◯。。。...

 話がややこしいのである。「データに騙されるな」と「データ至上主義」はレイヤーが違う。ここを整理しておかないと、勘違いしてしまう。前者は読み書き、リテラシーの話である。後者は価値観、思想の話である。後者の方が、より根深い。
 データをなるべく歪めずに使いなさい、その意味を正しく読み取りなさい、というのが統計初学者本の狙いである。その新聞記事に出てたグラフは、本当に正しいのかどうかを疑う態度が推奨されている。それはその通り、それでいいのだ。さらに一歩踏み込めば、なんでグラフが歪んでいるかまで考えられる。そういう読み方も楽しいのだと思う。
 一方で、それってあなたの感想ですよね論法にも一定程度の歯止めがかけられなければならないと感じている。ぼく自身はデータを基にした議論の方が好きだし、そういう話し合いをして欲しいもんだと常々感じている人間ではあるが、だからといって個人の感想をないがしろにするのもいかがなものかと思っている。たぶん、ほとんどの人間は、データではなくて感覚で生きている。感覚によって認識が生まれ、認識に基づいて行動が起こる。人間、そんなに論理的じゃない。そのソフトな面も大切にしてあげないといけないだろう。

●◯。。。...

 なんだかごっちゃになりそうだったので、一応整理だけしておいた。今はあらゆる場面で大量のデータが生成、集積されている時代になってきている。データとの縁は切っても切り離せないものになるだろう。その中で、データ至上主義という指摘は、どこかで重要になってくると思う。
 リテラシーは所与の条件になりつつあり、科学的思考はデータベースドシンキングみたいなものに置き換わりつつある。さて、どういうアプローチが次の一手を生むんだろうか。



m(_ _)m