実家に帰るということは、ひと世代前の価値観に触れることでもある。
世界の見方、価値観、生活感、注意深く見れば、今の私たちとの違和感
があちこちに存在する。 前の記事で書いた「 同窓会 」にも同じ
ことが言えるだろう。
年末年始に兄貴がこんなことを言っていたのが印象深かった。
「 ここにいると、欲しくもない情報がなだれ込んでくる 」
これは、不思議なパラドックスである。インターネットのある暮らしに
慣れ過ぎた人間が、インターネット環境がない実家に帰って「 情報過
多 」な感覚に陥っているのだから。
この言葉を聞いたとき、私自身もなるほどそうだな、と思った。7時の
NHKニュースが始まったときの、あの雪崩をいかにもエンターテイメン
トのように語る映像に、相当困惑していたのだ。声は明るく、またいつ
ものように、雪崩が起きたかのよう。私はそんな話を聞きたくもなく、
知らなくても生活に支障が出る訳でもない。
見せつけられた。 そんな言葉がしっくりくるのかもしれない。
ひと昔前までは、そんなこと、全く感じなかったはずなのに。
ひと昔前までは、そんなこと、全く感じなかったはずなのに。
ほんでもって、CM。 私も一時期CM業界を志した人間である。そして
広告業界の過度なターゲティングに対して、疑問をもっていた人間でも
ある。ひたすらターゲットの情報を集めて、必要としている人にしか
必要な情報を届けない。そんな広告は人の多様な視野を失わせると考え
ていた。 不必要なサービス、不必要な情報も届けるべきだと。
そんなやつが、いざテレビのある生活に戻ってみると、なだれ込む
情報に嫌気がさしてしまったわけだ(笑)
残念ながら、今のテレビにシーケンスバーはない。
そんな当たり前の感覚さえ、忘れがちなのだ。
デジタルネイティブとまではいかない世代でこう感じるのだから、もう
少し若い世代でのこの違和感はさらに強いものになるのかもしれない。
インターネットが普及して、家にテレビをおく必要がなくなった。
インターネットが普及して、人の情報摂取量は数倍になった。
だが、テレビ主体の生活にこそ情報過多を感じる。これは、どちらも
家にテレビを置いていない、私たち兄弟だけの感覚だろうか?そして
この状況は、余分な情報が切り離された生活と見るべきか、市民とし
て知っておくべき情報、commonな情報を摂取できない生活と見るべ
きだろうか?