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meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

【本】物語としてのケア ナラティブアプローチの世界へ


【 『物語としてのケア ナラティブアプローチの世界へ』 野口裕二 】

 医学書院の本を読んだのは初めてかもしれない。「 医学 」というと、なんだか遠い世界のような気がしていた。本の中の「 患者 」って表現がすごく新鮮だった。いつの間にか、そんな世界にも関わりはじめていた、ってことだろうか。いやいや、いつかは読もうと思ってた本なのだが。。。(;・∀・)

 「 ナラティブアプローチ 」はいつか調べてみようと思っていた。今回そこに踏み切ったのは、最近精神・発達障害の就労訓練に関わりはじめたからだ。「 ケア 」と向き合える機会であり、現場の葛藤/苦労も味わえる。せっかくなので読んでみようって魂胆である。

 この本はナラティブアプローチの概説書であり、その基礎となる社会構成主義の入門書だと思う。シャカイコウセイシュギってのは簡単に言ってしまうと“言葉が先にあって、その言葉が指し示すようなかたちで世界が経験される”って立場をとる考え方だ。例えば“セクハラという言葉がなかった頃、わたしたちは、それを対象化して論じることができなかった。”とある。現実を識別するためには言葉が必要である、というよりも、言葉があるからこそ現実が識別できる、って考えだ。この社会構成主義をベースに、言葉や語り、物語の視点から人間を捉え直すのが「 ナラティブアプローチ 」と言える。と、思う。

 現実より言葉が先立つのであれば、言葉は“わたしたちの現実理解を一定の方向に導き、制約する”ものである。逆に言えば、言葉を変えることで「 現実 」はつねに変更の可能性に開かれている。物事考え方次第、ってのに似てなくもない。

 この流れに沿って考えると“自己とはセルフナラティブ”、つまり、自己とは自己物語であり、自己語りである。“自己がまず先にあってそれが自己の物語を語るのではなく、自己についての物語、自己を語る行為そのものが自己をつくっている” この「 物語 」に着目して、患者の困難に向かい合っていく。

 物語を変えていくのは相手だけではない。治療する側も、される側も、既存の物語から如何にして離れるか、組み替えていくか、が問題となる。そして、両者の物語同士の関係性をどうつくっていくか、も重要なポイントだ。事例が載っているものの、いやはや、これがなかなか実践できないことがわかる。現場に関わるモノ( といっても、ほんの少しだが )としては耳が痛くなったりもする。話を聞けているか?
 自分の物語を押し付けていないか?相手の世界を覗こうとしているか?

 お手伝いさせてもらってる就労訓練所での僕の位置は、何だかよくわからないままに「 訓練講師 」になっていると思う。これは仕方のないことで、講師が講師の役目を自ら捨てることはできない。そんなことをしてしまうと、ただ混乱を招くのみなのだ。だから、僭越ながら「 教えないと言いつつ、教えている 」ことに変わりはない。何もしないことを信条に向かっているものの、ついついアドバイスのようなことを言ってしまう。いや、障害者が一般企業へ就職するって考えれば、言わざるを得ない忠告だってあるのだ。と、思う。

 僕のアドバイスは、僕の物語/価値観/考え方から紡ぎだされるもので、社会一般から見ればそんなに的外れではないハズだけども、言ってしまえば「 外からの押し付け 」になる。浦賀に来航した黒船みたいなもんだ。「 コクサイヒョージュン カラ カンガエレバ オマエハ カイコク スベキデアル 」って言っても仕方がない。そう、本当なら、既存の社会へと枠から投げかけるより、相手の物語を引き出して、そこから折り合いをつけていくもんなんだろう。

 や、だから、それがムズカシイんだって。。。(;・∀・)

 就労訓練って、医学/福祉とビジネスとの狭間だ。ケアのある世界から、ケアの期待できない世界への移行とも言える。微妙な立場なのだ。本当なら、ビジネスにもケアの姿勢が必要なんだとは思うのだが。

 “ケアを個人に属するものではなく、個人と個人が織りなす「 関係 」としてとらえれば、個人ひとりに責任を帰すことはできなくなる。一方だけがいくらがんばっても変えられないのが「 関係 」である。「 関係 」は個人に「 外在 」している。”

 ケアは自己完結しない。だからこそ、障害は周囲の環境を変えていく可能性をもつのかもしれない。



 う〜ん (・_・;)
 理想を考え、理論を読みつつ、実践に適応できない歯痒さを感じつつあるなぁ。



 m(_ _)m