meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

コミュニケーションについて、いろいろ考える


【 小学校って、あみあみで守られとるよなぁ 】

  毎朝、通勤時には小学校の横を通ります。ちょうど8時半を過ぎた頃で、ちょくちょく朝礼みたいなの
 に出くわします。朝の校庭に小学生が整列していて、先生らしき人が前に立って話す。そんなのもあった
 かなぁ、と懐かしみながら通り過ぎるのが通例です。ただ、この間は少し様子が違いました。
  新任の先生でしょうか。前に立って生徒に挨拶していました。「 これからよろしくお願いします 」
 と先生の声。生徒は拍手でこたえています。5月中旬も過ぎた時期に、新しい先生とか来るのかなぁ、な
 んて考えながら過ぎようとしたときです。少しお偉いさんの先生、たぶん、校長先生とかかな、その人の
 言葉に私は卒倒しそうになってしまいました。「 今、半分ぐらいの人は拍手をしていましたね。でも、
 よろしくお願いします、と言われたのだから、よろしくお願いしますと応えるのが正しいコミュニケーシ
 ョンです。そうでしょ? 」的な。
  体が、くらくら、と来て、その場に倒れてしまいそうでした。職業柄、その場にいる生徒の中に発達障
 害の子どもがいないか不安になりました。きちんと拍手で迎えた生徒が可哀想になりました。そして何よ
 り、何が「 正しいコミュニケーション 」なのか?問い詰めたくなってしまいました。小学校段階では
 正解注入型の教育になってしまうことは百も承知です。それでも、一体全体、何をもって「 正しさ 」
 を言い張れるのでしょうか?特にこの場面では、拍手とよろしくお願いしますという返答を比較して、返
 答のみが正しいと言い切られているわけですが、その根拠はどこにあるのでしょう?

  別の日に「 コミュニケーションの目的がわからない 」という問いを投げかけられました。とても根
 源的で、いい悩みだなぁ、と思います。「 コミュニケーションの目的ってなんですか? 」と問われて
 明確な答えが出せる人は少ないんじゃないでしょうか。私には明確な答えが出せませんでした。場面ごと
 に変わってくるものだし、それらを通底する考えをスグに思い浮かべることもできなかったからです。
  意志を正確に伝えて、作業を効率化する。友達とおしゃべりして、その場を楽しむ。議論して、新しい
 知恵を生み出す。考えてみれば、社会システムは全面的にコミュニケーションに支えられている気がしま
 す。同時に、こんなに曖昧な概念もないかもと思えるぐらい、その定義は場当たり的に変化します。あっ
 ちではAであったものが、こっちではBになる。みんなよく使い分けてるもんです。
  また、コミュニケーションには生活の満足感とか、幸福感を高めるなんて効果もある気がします。何も
 言葉を発しない日は、どこかイマイチな気分が残ったり。友達や周囲の人と適度に話していると、気持ち
 が落ち着いたり。
  最近、ニコニコ動画の生放送、略してニコ生に手を出しはじめて、改めて自分の言葉が受け止められて
 いると嬉しい、ってことに気がつきました。ラジオでハガキが読まれてるような感覚に近いかもしれませ
 ん。自分から発信したコメントに、動画のうp主が反応をしてくれる。読んでくれたり、笑ってくれたり
 する。コメント同士でも、影響しあえる。リアルタイム性が加わるだけで、視聴感覚から参加感覚へと大
 きくシフトする。家で独り淋しがってるときには、こういうコミュニケーションがあるだけで、わりと癒
 されます。ディスられるのは怖いですがw まぁ、そういう雰囲気の動画に行かなければ済むことじゃな
 いかな、と思います。

  ここで思い出すのは『 ボランティア もうひとつの情報社会 』のこの一節でしょう。

  情報との関係でいうなら、ボランティアにとっての報酬は、「情報をもらう」ということである。
 ここで情報といっているのは、動的情報のことである。つまり、ボランティアにとっての報酬とは、
 「耳よりの話がありますよ」というような、すでにある情報を教えてもらうことで得をするというこ
 とではない。自分が始めたネットワークのプロセスを相手が尊重し、その人なりの反応によって受け
 とめてくれるということで、交流が生まれ、動的情報が発生する現場に立ち会うということが、ボラ
 ンティアにとっての報酬なのである。

  「 その人なりの反応 」っていうのがいいなぁ。その反応が生まれることが、何かわかんないけど、
 満足感とか、充実感とか、楽しさとか、そういうものにつながっていくんだろうな。そんな風に考えると
 コミュニケーションの目的ってなくて、よく「 手段が目的になっちゃってるよ! 」って言われるのと
 おんなじ構図だけども、コミュニケーションが生まれること自体が、コミュニケーションの目的とも言え
 のかもしれません。

  冒頭の話で、拍手は生徒の、そのときなりの反応だったと思うんです。相手を尊重しなかったわけでも
 ない。聞いたけど無反応というわけでもない。相手に伝わる形で反応してる。そこに常識的なパターンと
 いう意味での「 型 」はあるかもしれないけど、やっぱり「 正しさ 」を定義するのは変な話です。
 まぁ、それは個人的な意見ですね。多分、いろいろやって、考えて、腑に落ちるものを編み出していく系
 のもんなんでしょう。



 m(_ _)m