meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

自由の学風は京大の憲法である


【 1年前にたしか京大で撮影 】

 しばしば京大出身であることを忘れているkimuraです。。。(;´Д`) (;´Д`) (;´Д`)

 最近、タイトルの言葉をFacebookで見かけました。京都大学総合人間学部の図書館向かいに掲げられてたみたいです。また、何でもめてるのかは知りませんが、気持ちのいい言葉です。「 自由の学風は京大の憲法である 」うん、まさしくこれが京大であるな、と感じてしまいました。
 東京大学ではギャップイヤーだなんだと、学生が空白期間を持てるように進めているみたいです。春の入学を秋まで伸ばして、その半年間を空白にする。もちろん、その空白期間にボランティアだとか、インターンだとかをするって話だと思います。休学期間に50万円支給する制度なんてのもあるみたいで、時代は変わり具合を感じます。まぁ、大学内で勉強しててもダメだよね、って気持ちはよくわかる。大学時代に出会ったおもしろい人はすべからく大学外に出てましたから。

 東大のこの制度と対象させてみると、極論ですが、京大なんて学部4年間(人によっては8年間まで。超人はさらにその先までw)ギャップイヤーみたいなもんです。文系学生は特にそう。だいたい暇です。大学に入ってやることといえば、とにかく楽に単位を稼ぐことと、寝ることでした。教室に配られてるビラの裏側にテキトーな魚の絵を描いてレポートとして提出したこともあります。「優」の評価をいただきました。通年授業を2重登録して、最後の授業2時間程度で8単位ぐらいを稼いだこともあります。2重登録は同じ時間に2つの授業に出るよ、という登録をすることです。例えば水曜日の3コマ目に『日本史学』と『東洋史学』の授業、どちらにも出席する、、、と登録できる。この2重登録は、文学部だと学生の権利として認められていました。
 わたしが在籍した00年代後半でも「年々学生が真面目に授業に出るようになってきて困る」と言われてたので、今やどういう状況なのかはわかりません。上記のような言葉や制度、雰囲気が残っていて欲しいなぁ、と願うばかりです。それは、わたし自身が怠けたいからとか、学生は怠惰で暇であるべきだとか、そういったことから言っているわけじゃありません。「 自由の学風 」こそが大学にあって欲しいものだと感じるからです。

 わたしは大学を教育機関であると思っていません。大学は研究機関です。研究を第一義として学生の教育は二の次であってよいと思っています。研究をするために学生があるとでも言っていいかもしれません。教授は研究をすべきです。大学が育てるとすれば、研究人材です。そして研究ってのは他人から課題を与えられてやるもんではなくて、自分で選び取って、自身の探究心に基づいて行われるもんです。だから、出来る限り研究的な人を育てようとすると「 自由 」を担保するのが一番いい。学びたい奴は学べばいいし、遊びたい奴は遊べばいい。どちらにしても究めていけば研究になります。「知」というものはどの方向にも伸びているものです。何だってあり。それが創造性を高めるのではないでしょうか。

 なので、たまに就職の前段階としての大学って文脈で書かれた文章に触れると、なんだかムズムズしてしまいます。現実的に就職の準備をする場所になっているのは認めますが、、、そこには、何か、「 育ててもらおう 」的な前提があるように思えるのです。先生は学生を育てるもの。学生は先生の授業に出ることで成長していくもの。そんな構図があるような気がしてしまいます。つまり、学生がすごく受身に見えるのです。それはすごくツマラナイことだと思います。

 高校までの、決まったカリキュラムにのっとって、レールの上を歩いていればいい感覚。それがバッサリとなくなるところに、大学のおもしろさがあります。自由というのは、何をしていいか、どこに行っていいのか、わからなくなることです。誰も行き先を示してくれません。つまずくし、時間を無駄に使います。リア充路線で遊ぶ奴がいれば、引きこもる奴もいます。そして、それが自分の力なんです。高校までレールの上をいい気になって歩いてきた奴が、ここで自由にぶつかる。ちゃんと考えたり、悩んだりすることを覚えていく場所なんじゃないでしょうか。
 大学から自由がなくなると、そうやって悩む機会がなくなってしまうかもしれません。先生の授業にちゃんと出て、勉強して、レポートを書いて、そうやって出来上がる優等生モデルを大学まで続けてしまうのは危険ではないでしょうか。自由であることと、その責任を痛感できる場が大学でしょう。大学では授業をちゃんとすべきで、教授は生徒を育てて、学生はちゃんと学んで、社会に出ていくべき的な話があると、いつもそんなことを考えてしまうのです。今、もし、京大から「 自由の学風 」がなくなろうとしているのであれば、それは本当に悲しいことだと思います。

 てなことを書いていて、ふと京大の学祭時期だったことを思い出しました。11月祭、通称「NF」の時期です。関係ない人にとっては、ちょっと長い連休の時期です。そんな学祭の今年の統一テーマは「 NFって出席点ありますか? 」。なんという皮肉。どうやら出席点目当てで授業に出る学生は増え続けているようで、いや、なんというか、なんとも、かんとも。。。(;´Д`)





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