meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

【雑記】花見を横目に見つつ

 桜を見に行きました。今年の桜は、若干早めに咲いた印象です。週末の天気が悪かったのと合わさって、ちょうどいい頃合いに見れませんでした。一番よかったのは3月30日、かな。。。その日は日本型支援力研究講座で缶詰ってましたねw
 ひょんなことから誘われて、鶴舞公園というメジャースポットの夜桜見物となりました。どんだけ人がいるんやろか?と心配してましたが、まぁ、予想通りの人出でした。桜の木の下は、宴会中の人たちで埋まってる感じ。やんややんやわいわいと酒を飲んだり、話したり。歌ったり、バトミントンとかしようとしてる人もいます。やんちゃしてそうな若いカップルに「写真撮ってもらえませんか?」とか言われたときには、逃げ出しそうになりました。まったく、世の中は平和です。びっくりするほどに、こともなく。

 花見の人出がどうこうだとか、的屋の売上がどうこうだとか、「こともなく」とはいえ、そういうのはあるんだと思います。時代の流れってのは、生活にダイレクトに影響してくるもんではありません。みんな気がつけばスマホを持ち、気がつけばAmazonで買いものをしてる。そんなジワジワとくるもんだと思っています。
 それにしても、みんな相変わらずです。震災が起こったとか、起こってないとか、経済がどうとか、こうとか。そういう話とは全く別世界にいるようです。いや、「危機感持てよ!」って言いたいんじゃありません。宴会自体はわたしも嫌いじゃありません。(あんまり好きでもないです)ただ、景気いいなぁ、と感じてしまうのです。

 2年ぐらい前から、ひとつの仮設を持っています。それは、20年後も、社会は変わりなく存在し続けているんじゃないか、というものです。いくらNPOとか言われても、社会的企業とか言われても、新しい経済とか言われても、変革なく、ただ今が続行されている。農業は少しぐらい盛んになってるかもしれません。コワーキングが進んでフリーランスが動きやすくなってるかもしれません。でも、本質的には変わらず、今のままが続いている。現在の課題を解決するために考えられてきた代替案的な道、オルタナティブオルタナティブであり続けているのではないか。と。そんな可能性もあると考えています。
 「これから日本は経済成長していきます!」って言葉を信じられる人は少なくなっていると思います。でも、実際に経済成長しないかどうかは、実はわかりません。個人的に、ちょこちょこ気にしているのは、海底資源です。技術的な問題と、周辺国との調整がうまくいけば、日本がウハウハすることもあり得る。アメリカではシェールガス革命が進んでますしね。電気自動車より、天然ガス自動車の方が先に浸透するのではないか、なんて思ったりもします。
 また人類は化石燃料に頼るのかよ、って気持ちがないではありませんが、これから先、50年ぐらいの期間で考えたら、ぜんぜん「もつ」んでしょう。100年もつって言われてますし。環境負荷をあんまり考えなければ、掘ったら金が出てくるシステムみたいなもんです。危機の引き金が先進国の負債だとするならば、これらの地下資源がスーパーマンみたいにいろいろ支えてくれて、経済は立て直されるかもしれません。そしたら「日本は潰れるぞ!」とか、「給料は上がらないから、みんなで支えあおう!」なんて言ってたなぁ、なんて自嘲するときが来るかもしれません。(わたしはそんなこと言ってないと思うけど、そういう活動してたことを否定はできない。。。)

 はて? じゃあ、新しい経済的な人たちはどうすればいいんでしょうね?

 メインストリームに出ることなく、アンダーグラウンドは地下に潜んだままで終わっていけばよいのか?再生不可能と思われる資源が枯渇する未来に向けて、資本主義なるものが破綻するかもしれない未来に向けて、100年先、500年先、1000年先を見据えた種まきなんて、やっていけるもんなのでしょうか。

 つまり「死んだ後の自分」という前未来形の消失点から「今」を見ることのできる人、そういう人のことを古来、ぼくたちは賢者、名人、聖人というふうに呼んできたんじゃないでしょうか。
( 『死と身体 コミュニケーションの磁場』 内田樹 )

 ま、経済の専門家でもなんでもないから、なんとも言えないんですけど。単純に捉えられるような話でもないってのもわかってるんですけど。20年後をおとなしく待っとけ、って話ですけども。

 もっと簡単に、目の前にあるおもしろそうなモンをやってけ、とも思うんですけども。



m(_ _)m