meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

言葉尽くして、理を尽くさず。理不尽はなぜ起こるか?

 世に理不尽は多い。残念ながら、多いようである。では、この理不尽とはなんぞやと見つめてみるに、どうやら「理を尽くさず」と書いてある。「理を尽くさず」。ということは、尽くされない「理」とはどういうことかを考えていかねばなるまい。

 「理」というのは「ことわり」であり、論理、理由、理解などのロジック的な意味でつかわれながらも、調理や料理という単語にも出てくる、少し妙な感じのする字である。Wikipediaによると「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」などの意味があるとのこと。白川静がどう見たかは気になるところだ。
 わたし個人としては「理」というのは仕方のことであり、筋道やプロセスだと思っている。方程式に喩えるとわかりやすいかもしれない。y=ax+b とかの式があるとしたら、「理」はその式のことであって、投入されるxの値や出力されるyの値のことではない。言い換えれば、投げ込まれるコンテンツやメッセージ、刺激や、その結果出てくる発想、返答や反応ではなくて、その間にある過程や仕組みのことを「理」だと考えている。
 実は人の頭の中では常にこういった式が働いていて、これが思考やコミュニケーションの根幹を担っている。「昨日のドラマ見た?」「みたみたぁ〜、あれヤバかったよねぇ」という何気ない会話の中にも式は働いていて、もちろん、その式によって反応は変わってくる。この場合だと「ドラマ見た?」という問いかけに対して、「みたみたぁ〜」と受けて「あれヤバかったよねぇ」とドラマの何らかの要素を思い浮かべている。

 そして、わかりにくいことに、わたしたちは投入されるxや出力されるyなどの値ではなくて、xとyの間にある式をやり取りしている。それぞれの言葉ではなくて、「理」をやり取りするのだ。この想定からは、言葉尽くして理を尽くさず、そんな状態ではコミュニケーションは成り立たない、という結論を導くことになる。なんとも妙な話ではあるが、わたしはこれに納得感を持っている。

 冒頭の理不尽の話に戻ろう。どんなときに理不尽を感じるかといえば、例えば自分がy=axを想定してxに値を入れたのに、相手はy=cxであったがために期待していたyの値が出てこなかったときが考えられる。「昨日暑かったね〜」と言ったときに「わたし毛布出したんだ」ときたら、あれれ?となるだろう。ただ、ここまでだとまだ疑問でしかない。「あなたも毛布出した方がいいわよ、出しなさいよ」になってきたらこれは理不尽となっていく。方程式で言えば、y=axをもつ人に対してy=cxという式を押しつけているという状態である。
 これはいいコミュンケーションではない。「毛布を出した方がいい」は言葉としては伝わっているが、だからといって理解には苦しむ内容である。「理」がなければ受け取れない。だからおそらく「なんで毛布を出すの?」と相手の筋道を問うことになる。「え?だって寒いじゃない。寒いでしょ」と返って来たとしたら、わたしはそろそろ会話を諦める。「暑いって言ったでしょうが」と言ったところで通じなさそうなので。
 ここで見て欲しいのは、それぞれの言葉に難解なところはなく、メッセージ自体は伝わっているという点である。だが、なぜ寒いと感じたのか、暑いと感じたのか、その背景は交換されていない。y=ax、y=cxの定数aやcが交換されていないから、会話はちぐはぐになる。逆に言葉やメッセージがとってもちぐはぐだとしても、式が交換されていると会話が成り立つこともある。お父さんが「お茶」と言って、お母さんが「肩こるわぁ〜」と返したら、お茶が出てこないことがわかる。そういうコミュニケーションもあるのだ。

 やり取りされるのは値ではなく、メッセージでもない。式であり、プロセスである。そして、どっちの「理」が正しいの?となったときには、やっぱりコミュニケーションは破綻する。その正しさというのは、自分の中での正しさでしかなく、異なる背景を持った相手にとっての正しさには通用しなくなる。理詰めで話したところで相手は納得しない。当たり前なのだ。そもそも自分の「理」でしかモノゴトを考えられないのだから、相手の「理」を尊重しようという気持ち/自分では届かない領域があるという謙虚さがなければ、やはり、理不尽な状態に陥ってしまうのだろう。

 じゃあ、なぜ?なぜ?と問いかけて、相手の背景を掘り出していけばいいのか、というと、そう性急に構えてもいけない。交換されるのは式であり、プロセスであり、仕方とも言えるもの。人は中身ではなく見た目や所作で印象が決まり、文章は中身ではなく文体で伝わるのと同じように、「理」や式は話し方で交換される。
 なぜ?と一方的に問うたところで有効な答えは出てこないのは、誰もがイメージできることだと思う。注目すべきは「方」であり、「型」である。作法やマナーと言ってもいい。振る舞いや声のトーン、表情や服装にまで及ぶ、メッセージではないけれどもそこにメッセージを載せてしまっている何かである。まさにメディアはメッセージ。伝えたいことではなくて伝え方に意識を集中した方がいい。そこに至ってやっと、関係を見出し、編集していく糸口が見えてくるのではないかと、わたしは思う。
 相手を尊重するからマナーが守れるようになるのではない。マナーを守ろうとするから、相手を尊重する気持ちが生まれるのだ。順序を勘違いして、投げ出してしまうのはもったいない。

 隣に座った精神科医が私に質問しました、「すぐれたセラピストとしての条件とは何ですか?」と。そのとき私は、「それはマナーのよさ」と答えました。それは彼には生意気に響いたかもしれません。でも、これは彼のまじめな質問に対する私のまじめな答だったのです。それは今日でも変わりません。創造的な会話と発展性のある関係へと他者をいざなうために最も必要なことは「よいマナー」であることを私はいつも強調しています。

( 『協働するナラティヴ』 ハーレーン・アンダーソンによる序文より )

 理を尽くすというのは、なかなか難しいものではある。それでも、理を尽くそうとする意識は持っていたいと思うし、やはり、自分自身の所作を磨くことで、自分では届かない場所への敬意と憧れを抱き続けたいと思う。



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