meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

『非常時のことば』掘っ立て小屋のような文章の美しさよ。

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 源ちゃんといえば、高橋源一郎のことであって、NHKのラジオ番組「すっぴん!」のリスナーには「源ちゃんの現代国語」とかでお馴染みである。ということは、わたしも「すっぴん!」リスナーであって、高橋源一郎については文章より先に声を知った。もうすぐ引っ越す関係で、朝のすっぴんなひとときが過ごせなくなるのが哀しくなるぐらいには聞いているいつもの番組であって、この名前には大変な親しみを持ってしまう。
 いつか源ちゃんの本を読んでみようと思っていたところで、この本に出会ったのだった。たぶん、去年の秋ぐらいに行った、古本蔵出し的なときだったと思う。そのときは熊本で地震が起こるなんて思ってもなかったし、だから「非常時」に特段思い入れがあったわけでもなかった。

●◯。。。...

 そんなところで起こったのが熊本地震だった。直接揺れたわけでもなかったからか、津波のような全てを覆してしまう圧倒的な迫力がなかったからか、心はそれほど動揺しなかった。有り体に言えば、大変だなぁ、と眺める傍観者の立場をとっていて、むしろ、自分自身の中にこの事態を楽しんでいるような一部分が潜んでいることに気付いてしまって、その狂気を見つめた方がいいんじゃないかと考えるぐらいだった。要は、自分自身異常なぐらいに落ち着いていた。前回、東日本大震災のときの衝撃が大き過ぎたのかもしれない。
 まぁ、その程度だったのだ。さて読むか、となったのも、特に大仰な理由はない。興味は以前、ことばよりも源ちゃんの方に向かっていた。

 源ちゃんはロマンチストである。と、思った。ロマンだよ、ロマン。そんな感じ。いくつかの文章を巡り、非常事態に陥ったときに生まれることばについて語る源ちゃんは、どっからどうみてもロマンチストに見えた。
 メッセージはひどくシンプルで、非常時に溢れてくることばが、掘っ立て小屋のような文章で綴られる、その無骨さが美しいのだ、というようなことだった。というか、そういうことしかわたしの頭に入らなかった。キレイな文章、整った文章ではないけれど、響く。よくわかる話だし、自分でもそんな文が書けるような人間でありたいと願っていたからだと思う。
 軸は掘っ立て小屋のような文章に立てられ、あとは、いろいろな掘っ立て小屋を源ちゃんと一緒に見てまわるという順路になっていた。まぁ、それは工場見学みたいなもので、源ちゃんはあくまで案内人だった。源ちゃんのことばそのものを読んでみたかったわたしには、ちょっと物足りなさも感じてしまった。

●◯。。。...

 それにしても、掘っ立て小屋を建てるのは、難しい。ことばというのはひどく気まぐれなものであって、いや、これはわたしが気まぐれだからなのかもしれないけれど、とにもかくにも波がある。大波が来るときもあるが、それを捌けるだけの体力がないことも多い。波を逃すと、なんかマヌケになる。無理矢理ひっぱり出そうと探りを入れてみるにも、それなりの技術と経験が必要なのだろう。結局は日頃の鍛錬とかエクササイズが行き届いていないと、非常時には耐えられるものではない。これもひとつの非常時への備えである。
 水やカンパンや耐震補強や、そういう備えがある一方で、文化や芸術の備えは見逃されているのかもしれない。ことばだって飲み込まれる。飲み込まれてぐちゃぐちゃになったら、励ましや供養や見つめることや目を逸らすことができなくなってしまう。

 掘っ立て小屋というか、ボロボロのことばしか書けないけれど、それでも普段から建て続けるとういうことをしていく。それでよくて、それが大切なことなのだろうな。

 

m(_ _)m

 

 

非常時のことば 震災の後で

非常時のことば 震災の後で