文体が気になりはじめたのはいつ頃だったか。レイモン・クノーの『文体練習』を某NPO代表からすんごい長い期間借りっぱなしにしていたときには、まだ、そんなに気にしていなかったと思う。ただ、その頃から、ぼくは鬱屈していた。書いても、書いても、届かない何かがある。meta.kimuraを書きはじめたときから、少しずつ積もってきた違和感。もう、5年ぐらい前のことだ。
文章には限界がある。言葉で区切った世界のハザマに落っこちるものがあって、それは言葉にできない。できないから、文章では切り込めない。分析できない。扱えない。でも、それこそが、大切なものなのではなかろうか。書いても、書いても、届かない。原理的に、届かない。
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だから、ぼくは写真を撮っているのだろうと思ったし、物語にも目をつけた。イシス編集学校の物語講座に、うっかり申し込んでしまったのはそのためだった。思えば最初っから、「遊」という物語講座を目指して編集学校に入ったのだった。
物語は、比喩だ。レトリックだ。写し取りたいことに、直接切り込む野暮な分析家ではない。ヒストグラムを見たって、写真の美しさはわからない。その迫力は、繊細さは、湿っぽさは、シズル感は、写真そのものを見ないと伝わってこない。燃えるような赤は、絵の具の赤じゃないのだ。足の疲れを伝えるのには、足が棒になったと言った方がうまく伝わる。
Aを伝えるのに、Bを使った方がいいというのは、なんだか矛盾した話だけど、どうやらそれが本当のことらしい。やたらに幅をきかせている合理や論理が、真実ではないという、いい例だと思う。
つまり、物語も、レトリックも、違うのは大きさだけで、やっていることは同じなのだ。そして、これらがあるから、言葉は自由に飛べる。言葉と言葉の合間を掬うことができる。この重要性に、ぼくらはもっと気づくべきなのだろう。『レトリック感覚』の著者が言うように、レトリック教育があっていいはずなのだ。言葉の装飾であり、虚飾だったり、化粧だったり、嘘偽りだったりもするようなことを、扱って、乗りこなすために。
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そう。往々にして、レトリックは嘘偽りと見なされる。そのせいで、レトリックは一時期冷遇されたらしい。人は虚飾を好まない。今でも、装飾や見栄や化粧を嫌う人たちがいたりする。ナマがいいなんて、くそくらえだ。
AをAに閉じ込めておかないからこそ、そこに発見が生まれることが、見逃されているのだ。そこがレトリックのメインディッシュなのに。色気づいた中学生男子の整髪料に、女子の化粧に、悶え苦しむいじらしさが宿る。AはAでいられず、Bを求めていく。その過渡期が美しさであるし、ユーモアもその辺りに生息しているのだ。
レトリックで出てくる味が、さらになにかを深めていくのだ。そんなこんなで頭をぐつぐつ煮込む。なかなかに楽しい。
m(_ _)m