最近ぐっと寒くなってしまって、ヒートテックのインナーを着るかどうか、まだはやいか、まだはやいか、踏み切るか、いやいやまだまだ、などと悩み込む季節になってきた。半袖はすっかりお役御免である。一気に衣替えするのも億劫で、物置の中から長袖を1枚ずつひっぱり出す。今度の土日は、次の土日には、と、進む季節に抗うように衣替えを先延ばしにしてしまう。しかし、無情にも季節は進む。
秋の先には冬が待っている。冬支度をせねばならないのだ。今年のテーマは断熱である。週末、ひとまずはお風呂の大きな窓を二重窓にすべく、ポリカプラダンとレールを買ってきた。ついでに金工用のノコギリも買って、キコキコとレールを切った。プラスチック製の長いレールはよくしなる。なかなか真っ直ぐには切らせてくれない。切って、窓のサイズに合わせてを繰り返していたらスグに日が暮れてしまった。夕方の日産「あ、安部礼司」がはじまったと思ったら終わっていた。それなりな肉体労働と、集中力である。晩ごはんをつくる気力はなかった。
住むということがこれほどしんどく、消耗するものだとは思っていなかった。どうやら今までの住環境はかなりの部分がレディメイドだったようだ。自分のライフスタイルに合った商品がそこあって、あとはそれを取ればよい。簡単ではあったし、自分なりにカスタマイズはしてきたけども、これほどのDIYをするようになるとは思ってなかった。もともと肉体派でもなし。そこまでの興味も湧かなかった。
だが今は借家に住む身であり、狭いながらに庭もある。できることが増えた。増えた分だけ、手間も増える。もともとこちらのライフスタイルに合っているわけでもない。合わないものだから、合わせる努力をしなくてはならぬ。オートフォーカスでは味わえない、マニュアルのムズカタノシサがそこにある。
ありきたりだけども、地方に住むというのは凡そこういうことではないかとも思う。できることも増えるし、しなくてはならないことも増える。活動量は大きくなる。だから僕は、若い人ほど地方に行けばいいと考えていて、逆に高齢者は都会に住めばよいとも考えている。暴論だけど、そういう考え方である。
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過疎という言葉ができて50年経つらしい。ということは、50年前から過疎で、今もやっぱり過疎で、これからもその状況は続く見込みだということで、なんだかとっても衝撃的なタイトルだった。中国新聞の特集記事がまとまった本は「那須集落 6人になった」という、やっぱり衝撃的なルポではじまって、徐々に未来を見据えていく。
田舎盛り上げようぜ、地域おこしやってやるぜ的なマッスルに一歩か二歩か三歩ぐらいは引いてしまうわたしにとっては、新聞風のバランス感覚がちょうどよかった。小田切徳美氏のインタビューの直後に、増田寛也氏のインタビューをのっけるところにも気概を感じた。いい本だなと思った。
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帰り道、秋の夜長を歩きながら、こりゃあ「衰退の美学」が必要なんじゃないかとか思った。「成長の快楽」は麻酔なのかもしれない。人が増えること、盛り上がること、右肩上がりなこと、稼げること。それらはそれで大切なことだけども、美意識をもった衰退や消滅や撤退にも、頭が下がる。それもまた、英雄であるし、感動を生む。
そういう「衰退の美学」みたいなものは、多分、かなりの部分でナルシズムを含んでいて、それでいいんだろうなと思った。その場所に住んでいる人の幸せを、他所からの流れや人や情報が邪魔してしまわないといいなとも思った。
過疎地を担ってきた昭和一桁世代が80歳以上になっているらしい。さすがに地域のあれやこれやを支えられなくなっているという話である。50年経った現場の断片集。感じることも、考えることも多い。
m(_ _)m