少し前の朝のNHKラジオ。豪雨災害関連ということで、ゲストが寄付についての解説をしていた。義援金と支援金の違い、ふるさと納税で応援する方法、とかとか、などなど。未だに義援金と支援金の違いってのが浸透してなかったりするんだろうなぁ、と思って聞いていたら、最後のまとめでちょこっと気になってしまった。寄付先や寄付の方法を考えて、自分がいいと思う使われ方をするように寄付をしてください。そんなようなことをゲストが話していた。
ゲストの方の話は正しい。寄付先のことをきちんと考えないと、なんだか妙な活動に勝手に使われてしまったりすることが、ある。被災者にお金が直接届くと思って支援金(活動支援金)としての寄付をしていたら、あらら、被災者支援団体の運営資金に使われちゃった、なんてこともあるだろう。お金が直接届くのは「義援金」の方である。意図と違う使われ方をしちゃったら、寄付した人も残念な気持ちになってしまったりもする。
また、それ以上に問題になるのは、どこでもいいから寄付して終わり!ってなスタンスだと、寄付を集めた団体の悪意に気が付かないってことだ。なんも考えずに投票して終わり!って勢いだけで終わると、政治家の悪さに気が付かなかったりするのと同じである。寄付先の行動を監視しなきゃならないわけじゃないし、すべての投票に自分が責任をもつ必要もないと思うけども、あんまりにも緊張感がないとタガが外れてしまう。だから、自分で考えて寄付するのは、とてもいいことだとぼくも思う。
思うけど、なんか、変な気持ちになる。
●◯。。。...
自分がいいと思う使われ方をするように寄付をする。それが本当にいいのだろうか。ぼくが寄付するなら、被災地の人がいいと思う使われ方をするような寄付がしたいな、と思う。ここは、履き違えてはいけないような気がする。自分本位か、相手本位か、という違いもあるけれど、どうもそれだけではない。被災地支援の場合には、寄付の仲介者もいるからだろうか。
気になったので、白川静の『常用字解』にきいてみることにした。こういうときには、概念の生まれ故郷を訪ねる。昔、教わったことだ。
「寄」
形声。音符は奇。奇は把手のついている大きな曲がった刀をサイ(神への祈りの文である祝詞を入れる器の形)に加えている形で、かたよる、すぐれるという意味がある。またその大きな曲刀の形は不安定で、まっすぐに立つことができないから、ものによりかかることを倚(よる)という。曲刀を神聖なものによりかからせることを寄といい、人を頼り、人にまかせることをも寄という。「よる、たよる、まかす」の意味に用いる。寄附はもと人を頼る意味であったが、いまは人に金や物を贈る意味に使われる。「付」
会意。人と寸とを組み合わせた形。付は人に手(寸)でものを渡す形で、「わたす、あたえる、つけたす」の意味となり、付属(主なるものにつき従っていること。附属)・付託(あずけてまかせること)のようにも用いる。<後略>(白川静『常用字解』より)
ちなみに、「附」にある「こざとへん」は神が天に登ったり降りたりするときに使う梯子の形だそうだ。神に合わせて祭ることから「附」は付け加えるという意味になったらしい。これらをまとめて考えると、人(もしくは神聖なもの)にまかせて、手渡す、付け足し、というような姿が見えてくる。
もともと「まかせる」ものだったのかどうかは知らないが、ぼくの好みの解釈ではあった。やっぱり、という気持ちになった。自分の意図がビシビシと入り込んだ寄付には、違和感があったのだ。寄付は、意志ではなくて、祈りがのっかったお金だと言われた方が、気持ちがいい。寄付を受けた仲介者が感じるべきなのは、たぶん、責任感ではなくて、使命感みたいなものなのだろう。
お願いね。いいように使ってね。まかせたよ。そんなスタンスは、無責任だろうか。
●◯。。。...
まかせる相手ぐらいは選びましょう、と言われれば、その通りかもしれない。それでもぼくは、難しいことを考えずに寄付する人たちに、いやいや考えましょうよ、と言う気にはなれない。東日本大震災のときに、きちんと考えて寄付しましょうってな活動に巻き込まれていた自分がこんなことを言うのもどうかと思うんだけど、意図に合わせて寄付先を選ぼう、とは、言えない。そういう考え方があることはわかるし、選ぶことが大切なのもわかるけど、なんだか、神聖なものに触れてしまうような気もするのだ。
ちゃぶ台をひっくり返すようで申し訳ないが、そもそもぼくは、寄付の価値を「届く」ことに置いていない。寄付はその行為自体に価値がある。寄付をしたときの祈りであるとか、気持ちが大事なんだろうと勝手に決め込んでいる。そういう人の方が好きなのだ。
募金箱に入れたお金を指して、もうわたしのお金じゃないよ、と言える人の方が気持ちがいいな、と思う。
m(_ _)m