meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

生産性の呪いを超えていけるか

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 参議院選挙ではれいわ新選組山本太郎が落選した。その代わり、特定枠で重度障害者の2名が当選となり、その存在が、既に制度の矛盾に切り込んでいる。人間の価値を生産性ではかる世の中になってしまっている。それを変えたい、というのが山本太郎の主張の1つだった。
 相模原の知的障害者施設で殺傷事件が起こったのが、だいたい2年前のことだ。あのときにも、生産性は問題になった。何も生み出さない人間に生きている価値はあるのだろうか。その問いかけに対して、「価値はない」と答えたのが相模原の犯人だっただろうし、「当然価値はある」と言い切ったのが山本太郎なのだろう。
 ネットで見かけた記事に、相模原の犯人は自分自身も無価値な人間だと考えていたとあった。2年前の事件を起こしたことで少しでも価値のある人間になったのだと考えているらしい。いかにも。ありそうなことだな、と、思った。

●◯。。。...

 最近、妙に米津玄師にハマっている。もともと中田ヤスタカが好きだったもんで、合わせ技ってことで『NANIMONO』をやたらと聞く。youtubeだから、聞いている側としては何も支払っていない。米津玄師と中田ヤスタカは、何を、どのくらい、生産したのだろうか。
 何をと言えば、音楽と映像だろうか。そこにどの程度の労力が費やされたのかはわからないし、はかりようもないが、むりくり計算しようとするならば、人件費とか、設備機材の価格だとか、制作期間だとかの合計だろうか。
 では、どのくらいの生産なのかと言えば、youtubeの広告収入とか、ダウンロードの売上高だとかが答えになるだろう。それなら、まぁ、それなりに測定できると思われる。コンテンツはいろんな媒体に拡散するし、この楽曲の場合は映画にも使用されているから、総計するのはすごく大変だろうけども。
 これらのむりくり計算を何とか頑張って、足したり引いたり掛けたり割ったりして、出てくるのが経済的にみた生産性というやつ、だと思われる。要はかかったコストに対して売上はどんなもんか、ってなことであるのだけれど、その計算の煩雑さたるや想像を絶する世界であることは、意外とみんな知らないのかもしれない。2,000円の商品Aと3,000円の商品Bを生産する耐用年数6年の機械を導入したコストは、商品1個あたりどの程度のコストとして考えられるでしょう、なんていう結構単純な問題を想定しただけでも、わりと吐き気がする計算が待っている。まして人件費なんて、営業、製造、総務、経理、人事、様々な職種が密接に絡み合ってくんずほつれつなのだ。

●◯。。。...

 世の中には社員一人当たりの付加価値なんていう便利指標もあるっちゃある。人件費と営業利益を足して社員数で割ったり、売上総利益を社員数で割ったり、いろいろこねくりまわして、あなたのところは生産性が低いのね、高いのね、ってな感じのことを言うものだ。ただ、それってつまりは、インプットに対して最終的なアウトプットがどんくらいかをざっくりはかっているだけのようにも見える。その中間にあるあれやこれやの複雑性は、一旦脇に置いて、置いたまま忘れ去られてしまうものだ。
 それはつまり、複雑性には付き合いきれないよ、という諦めである。でもって、モノゴトを単純に捉えたい、客観的に判断したい、という怠け心でもあるのではないかと思っている。人間の価値なんてはかれないのだから、市場原理に任せてしまえい、ということなのだ。数値にしてしまえば比べられる。いい人間と悪い人間を区別できる。そして、その数値を決めるのは、評価する人間ではなく、市場とか世の中とか社会とかいう、もやっとした総体なのである。

●◯。。。...

 ゆえに、ぼくたちはもやっとした総体から価値の有無を判断されている。会社に所属していれば、自分を評価する者は、上司という具体的な姿であらわれるかもしれないけれど、それであっても背景にあるのは市場である。ましてや、求職者にとっての労働市場なんてものになると、大変にもやっとする。その煙の塊に、自分の生産性なるものをはかられているような気になってくる。
 それは具体的な姿を伴わず、生活のリアリズムを無視して、おぬしは生産性が低いのじゃ、と突きつけてくるような存在である。怖いのは、誰かが言っているわけでもないのに、自分自身の生産性を、自分自身で「低い」と決めてしまうような雰囲気が、何となく漂っている気がすることだ。もやっとした総体から、「生産性が低い」と、なんとなく曖昧に告げられているような気になってしまう。告げる者が曖昧模糊としているから、それを「告げられていない」と否定することは難しい。
 そして、これもなんとなくだけれど、自分が生産的だと思えるような雰囲気も、今の時代にはないような気がしている。自分を過小評価してしまうのは、日本人の癖なのだろうか。本当にそれだけが原因なのだろうか。

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 生産性自体が曖昧でグラグラしている。営業は成果で評価する!と号令を出したとしても、優秀な営業事務さんがいいアシストをしている可能性を見逃すわけにもいかないのである。なのに、どうにも、もやっとした総体は生産性ではかりたがっているようにみえる。面倒くさい人間関係をナシにして、数字でみてやろうと構えている。ややもすれば、ぼくたち自身も生産性ではかられたがる。
 曖昧な指標にすがりつきたくなるのは、確固たる土台ができていないから、だろうか。その不安がどこからきているのか。年金があれば、日本が成長していれば、給料が伸びていけば、不安は解消されるのだろうか。本当に、そうなのだろうかと、疑ってもしまう。

 

m(_ _)m

 

 

ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)

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