前々からいつか行くぞと意気込んでいた「庭文庫」に行ってきた。岐阜県東濃、恵那の山間にある古本屋さんである。秋晴れの爽やかな午後、店主の代わりに年老いた猫が迎えてくれた。
店内の雰囲気は、まぁ、想像通りの古民家レトロおされ風。意外と広くて、本もたくさん並んでいる。古本屋と言いつつ、新刊も多かった。
あんまりのんびりゆったりぐったりデロデロしている時間はなかったのだけれど、本が並んでいるとじっくり見たくなってしまう。どこかにおもしろそうな本はないかなぁ、と眺めていたらすすすっと『だめだこりゃ』がすり寄ってきた。なんかおもしろそうな。さらりと読み切れそうな。これ、今ぼくが読むべき本のような。
今の状況、もうほどんど「だめだこりゃ」なのだ。
●◯。。。...
タイトルとは裏腹に、内容はしっかりとした自伝であった。全然、だめだこりゃ、な人生じゃない。いかりや長介という誠実な人間が、そのときそのときを頑張って生きてきた軌跡が、素直な文章で綴られている。キーワードたる「だめだこりゃ」はほとんど出てこない。
それでも、この言葉をタイトルに選んだことに、メッセージを感じてしまう。この精神ってすごく大事なのだと思うのである。コントの締めは、「だめだこりゃ」。でもって、「じゃ、次いってみよう!」。
●◯。。。...
人間も社会も、会社も家も、他人も自分も、だめなことばっかりだ。人は相変わらず環境を汚染するし、温暖化は進む。会社は理念を忘れて利益ばっかりを追っかけるし、ぼくは年齢を重ねてますます欲望に逆らえなくなってきている。
「落語とは人間の業の肯定である」というのは、立川談志の言葉。ミヒャエル・エンデも次のように語っている。
ユーモアは、人間に弱みがあってはならないとは絶対思わないからです。その逆で、実は、ユーモアは、どちらかといえば、人間には間違いがあるからこそ愛すべき存在なのだとの意見なのです。間違いがあるにもかかわらず、ではありません。
(『ものがたりの余白』ミヒャエル・エンデ)
いかりや長介が住んでいた笑いの世界は、おおらかで寛容であったのではないかな、などと思ってしまった。
問題は発見されて、構造化されて、解決されるべきもの、とするビジネスチックでソーシャルなんたらな世界とはちょっとアプローチが違う。問題は問題であるけども、「だめだこりゃ」で落として、笑う。特に解決なんかしないし、むしろ、解決しない方がおもしろい。
しむらー、うしろ、うしろ、と聞いて背後から忍び寄る怪物に気づいちゃったら笑えないのだ。そんでもって、そのまま怪物倒しちゃったらさらに笑えない。それはそれでヒーローかもしれないけれど、コントとしては、だめだこりゃ、である。
●◯。。。...
問題解決もよいけども、問題流しもまたよしなのだ。笑って流せれば、それでOKであるという考え方を、改めて見直したいなぁ、と思った。問題寛容型社会、というよりも、問題寛容型わたし、か。
余裕や余白に乏しく、焦りも感じる日々である。「だめだこりゃ」とか「ええじゃないか」みたいな言葉を頭に満載して、乗り切っていくのも手かもしれない。
「じゃ、次行ってみよう!」
m(_ _)m
ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと (岩波現代文庫)
- 作者: ミヒャエル・エンデ,田村都志夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/11/13
- メディア: 文庫
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