今どき用語で便利な「対話」。同系統の用語である「ファシリテーション」と同じく、いろんな場面で使われ過ぎて、ゆえに、場面々々で都合に合わせて様々な解釈が飛び交っている。対等に話し合うことだとか、お互いに腹を割って話すことだとか、2人で話すことだとか。
これだけ意味が広いと、もう対話という言葉が存在する意味もないんじゃないかとか、思えてくる。そろそろどこかの誰かが「脱対話論」を唱えはじめるだろう。
『わかりあえないことから』に何と書いてあったかは忘れてしまった。正直、対話なんて、そんなこと言ってらんないよ、というぐらいにわたしが消耗してしまっているからだと思う。言葉を尽くそうが、腹を割って話そうが、2人で話そうが、有効打が得られている感触がない。そんな会議室にわたしは放り込まれているのである。
幾度も繰り返される数時間の非生産的な時間。議論は平行線を辿っているのかというと、そうでもなくて、むしろバックラッシュでごっちゃごっちゃに絡まった釣り糸のように、ひたすらに蛇行と逸脱へ向かう。
対話でないから、こうなるのか。いや、たしかに対話感は薄い。しかし、おそらくこの会議室で対話が巻き起こったとしても、相変わらずバックラッシュするだろう。対話の限界、というよりも、対話が不可能なのか。
●◯。。。...
国が違えば言葉が違う。会社が違えば文化も違う。人が違えば思考回路も異なってしまう。とかく、この世においてコミュニケーションは無理ゲーである。テレパシーでも使えれば、要点がすんなり伝わるか。そんなことを考えてもみたけども、脳が別物なのだから、きっと伝わらないだろう。「伝わった」を実感するには、洗脳が必要なのかしらん。
人それぞれに世界があって、世界はきっと分かれている。その自覚が欠けているのであれば、きっと対話は成り立たない。相手の世界を俺の世界で染め上げようとすれば無理が出る。なのに、染めようとする人たちがいる。これは、染めようとしているのではなくて、そもそも世界がいくつもあることに気づいていないのだ。大変に厄介である。
人と人は違う。まったくに違う。違うところを一緒にやっていくために、何とかしようとして、橋をかける。その橋だって、一時的にかかってるぐらいのもので、どちらかの世界に地殻変動が起きれば崩れ去ってしまう。コミュニケーションにできるのはそのぐらいのことではないか。
分かれた世界はくっつかない。その諦観をもって、他者の世界にあたらねばならぬ。
●◯。。。...
しかし、いくら自分が諦めたからといって、俺の世界で染め上げたい派との対話を成り立たせられそうにない。結局、対話的素養があるかないかに、全てがかかっているように思えてしまう。そんなことを書きつつ、わたしも対話のタフさについていけそうにない。
m(_ _)m
わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)
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