meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

「 正しくなさ 」を許すか? 許すべきか?



 @takagengen さんの2011/3/21のtweetが秀逸であった。

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 「祝辞」12・いま「正しさ」への同調圧力が、かつてないほど
 大きくなっています。凄惨な悲劇を目の前にして、多くの人た
 ちが、連帯や希望を暑く語ります。それは、確かに「正しい」
 のです。しかし、この社会の全員が、同じ感情を共有している
 わけではありません。

 「祝辞」14・幾人かの教え子は、「なにかをしなければならな
 いのだけれど、なにをしていいのかわからない」と訴えました。
 だから、わたしは「慌てないで。心の底からやりたいと思える
 ことだけをやりなさい」と答えました。彼らは、「正しさ」へ
 の同調圧力に押しつぶされそうになっていたのです。

 「祝辞」17・「正しさ」の中身は変わります。けれど、「正し
 さ」のあり方に、変わりはありません。気をつけてください。
 「不正」への抵抗は、じつは簡単です。けれど、「正しさ」に
 抵抗することは、ひどく難しいのです。

 「祝辞」19・わたしは「正しい」から寄付をするのではありま
 せん。わたしはただ寄付をするだけで、偶然、それが、現在の
 「正しさ」に一致しているだけなのです。
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 この「 祝辞 」というのが何を意味しているのかはわからな
 い。卒業式かなにかをtsudaったものなのだろうか?それにし
 ても、このblogでも書いてきた違和感が見事に表現されている
 ようだ。「 正しさへの同調圧力 」この言葉に尽きるような
 気がしてならない。

 「 できること 」があちらこちらで議論されているが、そも
 そも、やらなきゃならないわけではない。これは大前提である。
 誰が「 やらない人 」を責められようか? 社会的責任を果
 たさない人、と言えるかもしれないが。。。

 「 心の底からやりたいと思えること 」を見つめ直す機会の
 方が重要に思えていて、さらに、その見つめ直す場で「 正し
 さへの同調圧力 」を生み出してはならないんだろうな、とも
 感じている。この恐れはなんだろうか? @mikiho3 が家に
 来たとき「 バラバラ過ぎた世の中が、震災によって、1つに
 まとまった感がある 」と言っていた。そこで、心配性な私は
 この「 まとまり 」が過激化しないか、と、そわそわしてし
 まうのである。不安な社会に衝撃が走ったときにリーダーシッ
 プを発揮すれば、1極集中社会の出来上がりである。


 妄想だと、言い切れなくて、
 僕はただただ、これだけを怖がっているようだ。


 本当に過激な話であるが、例えばこの危機に際して、「 救済
 するべきでない 」とした意見が出たときに、受け入れる度量
 はあるだろうか? その意見を出した人に傾聴する姿勢はある
 だろうか? そこまで行かずとも、「 なぜ国が保障する必要
 があるのか? 」ぐらいは感じている人もいるかもしれない。


 初動は無条件に動くものなのだと思う。
 だが、そろそろ、こんな問いをしてみてもいいんじゃないか?





 最後に、最近読んでいる本から、未消化ながら以下の言葉を。
 1983年初版ということで、題材が古いですが (^_^;)

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 対象の相対性を排してこれを絶対化すると、人間は逆にその対
 象に支配されてしまうので、その対象を解決する自由を失って
 しまう、簡単に言えば、公害を絶対化すると公害という問題は
 解決できなくなるのである。
             『 「空気」の研究 』 山本七平
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