「 感覚 」というキーワードが出てきた。その、まさに感覚的な点をわかりやすく体験できたのが、職人、大島さんの工房で体験させていただいた木工作業だった。これも本気でおもしろかった。
【 大島さん 木の話がめっさおもろい 】
木工作業ってなると、めっちゃくっちゃ汗かくもんだとhoz-proノリで想定してたら、ハズレだった。汗もかかず、気持ち良い風が通る工房で、ものすごい繊細な作業をさせていただいた。課題は、箸置きの仕上げ作業。サンドペーパーをかけて、塗装をするだけ。この作業がいかにおもしろいか!箸置きにはシャープさと、手触りの滑らかさが求められる。これが、サンドペーパーで1回撫でただけで全く変わってしまうから、驚く。木の目に沿って撫でると違う、樹種で硬さが違う、手の動かし方でも違う。見た目には同じでも、手で触ると感じられる違いがある。
湿気や乾燥で呼吸する木材だからこその精密さ、だろうか。
ペーパーをかけた後は、胡桃油で塗装。食べ物に近いところで使うものだから、口に入れてもいいもので塗装する。胡桃油は普通においしかった(笑)木のパイプに流しこむように油をのせると、吸い込む吸い込む。こんなにすうっと入っていくものだとは思わなかった。色もぐぐぐっと変わっていく。樹種ごとの違いがここでもはっきりわかる。
「 木 」がどういう素材なのか、心から感じられるワークショップだった。こんなに気付きが多いのは、どこかで洗練されてきたからだろうなぁ。
「 感覚 」でしか知れないものがある。五感のうちでも、視覚ではわからないものが、触覚でわかることもある。匂いもそうだし、西粟倉での暮らしでは、ひぐらしがなく時間帯に夕方が近づいていることを知る。「 メディアはマッサージ 」とマクルーハンは言ったけれども、テレビなどでは刺激されない五感がまだあるようで、私たちの感覚はどうにもまだまだ拡張されたいのではないだろうか。
「 脳あるいは感覚機関の機能の拡充こそが、その時代を特徴づける
中心的課題である。 」( 『情報の文明学』 梅棹忠夫 )
僕たちは、自分自身が持つ感覚の才能をもっと耕す必要があるのかもしれない。それは、「 言葉に出来ない何か 」を指していたりして、文化や伝統、芸術に結びついていくもんだと思う。
おさえておきたいのは「 感覚 ⇔ 思考 」の対立軸で捉えていてはいけなさそうだということだ。感覚的なものも、頭がないとついて来ないのではないか? おそらく相互補完的なもんで、Think!であり、Feel!であるのだろう。
むしろ、知識や思考が感覚を耕すのではなかろうか? って、それはわかりきったことかな。。。