meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

秋を感じて、ぐるぐるてきとーに考えた。ヽ(´ー`)ノ

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 最近、だいぶと力強い文章を書いていたような気がして、少し疲れた。たまには気を抜いて、まったり書きたいことを書きなぐっているぐらいがよくて、やっぱりわたしはそういう系統の人間なのだと思う。こんなチカラが人間には必要なのだー、などと、ホントは言いたくないのだ。
 生きたいように生きればいいし、人を頼るのが人というものである。無理に自分をマッチョにすることもなかろう。ぼくは太りたいから筋トレするけど。(;・∀・)

●◯。。。...

 今日の松江は素晴らしく晴れた。雲ひとつなく、爽やかな風が吹く。夏の暑さが戻るという予報ではあったものの、身体の芯に攻めこむような暑さはなかった。昼間の日差しにも衰えを感じる。空も高い。からっとした空気が肌に気持ちいい。秋である。8月にこれほど秋を感じることになるとは、全く思っていなかった。お盆前の暑さが嘘のように思えてくる。喉元過ぎればなんとやら、ということだろう。
 わたしは秋が好きだ。芽吹く春もいいけども、衰える秋の哀愁にはかなわない。栄えた夏への想いを残して、徐々に徐々にと落ち着いていく環境で、これが最後と余韻を楽しむ。突き抜けた明るさはなくて、トワイライトな複雑感がある。祭りは終わった。けども、まだまだ遊びたい。でも、それはできない。去り際のためらいのような、そういうのが妙に美しく思えるのだ。
 わりとロリコンのハズなのに、この意味では熟女趣味もあるのだなぁ、と我ながら思う。まぁ、白よりも灰色の方に魅力を感じるというだけのことだろう。ちなみに、実際には季節の好みと女性の好みはリンクしていないらしく、熟女好きではない。どっちかというと、二次元、、、いや、そんなこともないな。。。

 えっと、話がズレました。m(_ _)m とにもかくにも秋である。いい季節が近づいてきている。松江で迎える秋を、心の底から楽しみにしている自分がいる。いろんなことが重なって、忙しくもなりそうだけど、それもまたいい秋の経験になるのだと思う。

●◯。。。...

 にしても。衰えや葛藤が美しいというのもおかしな話ではないだろうか。突き抜けたキレイさ、まっすぐな育ちのよさ、根っからの白さ、そんなものの方が美しいのではないかと自分に問いかけてみるけれど、やっぱりぼくは陰りを求めたくなってしまう。陰りを乗り越えた美しさなんでしょ、と言いたくもなるけども、そうでもない気がする。陰は陰のままで美しいと言いたい自分が、あらわれてくる。
 太陽よりも、月が好き。満月もいいけど、三日月やおぼろ月の趣深さに惹かれてしまう。これは、ぼくがこういう性格だからなのだろうか。それとも、日本人の好みとして、こういう傾向がインプットされているんだろうか。それともそれとも、全世界に共通する感覚なのだろうか。
 詳しいことはわからない。だけど、一定の割合で、こういう趣味の人はいるんじゃないかと思う。しかも、わりと多くの人に共感してもらえるんじゃないかとさえ、思ってしまう。たぶん、みんな、ちゃんとおぼろ月を愛でられるのだ。
 見えるよりも、見えない方がセクシーである(なんか、今日はそういう方向に頭が走ってるなぁ)。祭りは準備が楽しいのと同じで、コトは達成されると途端に色が褪せはじめてしまう。完成品はおもしろくなく、未完成品に想像を巡らせる。ミロのヴィーナスのように、欠けたからこそ不朽の名作となったものもある。わたしたちの趣向は、どこかひねくれていて、ヘンクツなのかもしれないなと思う。

●◯。。。...

 そういえば「自分、不器用ですから」という生き方も、かなり秋っぽい。そんな屁理屈こねないで、器用に生きればいいじゃない、と、声をかける人は少ないだろう。不器用だったり、へうげものだったりに美や美学を感じる。ストレートボールは無粋で、カーブが粋。天邪鬼なのだ。
 でも、その感性がとっても大切なのだろうなぁ、などとも考える。複雑性が増し、多様化する時代において、ややこしいことを排してモノゴトを押し進めるパワフルとシンプルに力が集まっている気がするから。もっと、なよなよとしていて、ドロドロともしちゃうような危うさを、きちんと持っていたいのかもしれないなぁ。
 いろんな「割り切れなさ」の中に、「人らしさ」が潜んでいる。そんな風に思う。

 

m(_ _)m

 

 

ポプラの秋 (新潮文庫)

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