meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

今風原理主義が招く、絶対多な世界

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 多様であっても根は一緒。というのが人間というものである。多様々々と言えども限度とか範囲があって、そこから外れることはないと想定される。わたしたちは、何かしらの共通のものを持っていて、あちらこちらに行き交う人も、実はおんなじ人間なのだ、と、多くの人が思っているのだと思う。社会ってのは、そういった共通感があって成り立つもんだろう。
 ところがである。最近のわたしと言えば、どうも絶対的な多様、渡れない河のような深い深い溝、あちらとこちらの橋渡しさえもできないような絶望感にとらわれているようなことがある。それは目の前に差し迫って、どーんと明らかに現れるものではなくて、日常を覆う薄い膜の向こう側にちらりちらりと見えるぐらいの小ささで訴えかけてくる。徐々に徐々に、絶対多が出てくるのだと。あちらとこちらを行き来するためにあった渡り廊下のような共通点は、今にも崩れ去ってしまいそうなのではないか、と。

●◯。。。...

 時代は多様化であった。多様な持ち物、価値観、スタイルが認められて、人はバラバラの方向に向かった。規範に縛られないでいられる分、人は過ごしやすくもなった。それまで均質だった社会に格差が生まれたりもした。大量生産大量消費ではないとされ、少量多品種がもてはやされた。ここ10年とか20年とかは、多様とか多極の時代で、そのことに反論する人はあまりいない。よくも悪くも、多様でいいのだった。
 そんな多様時代の中で、目につくようになったのが原理主義的主張である。

 多様化時代にあってもみんながうなづける究極の言説を削り出した、そんな主張を今風原理主義と名付けてみた。「人を殺してはいけない!」「戦争を起こしてはならない!」というような言い回しを、わたしはどうも好きになれないようなのだ。上にリンクを貼った記事でも、この原理主義は危険な気がすると書いている。やっぱり危険だったのかもしれない。

 この系統の言葉は反感を誘ったのではないかと思うのだ。曖昧模糊として、ぼやっとした霧に包まれていた渡り廊下を、暴いてしまった。暴いてしまったがゆえに、そこに渡り廊下などない、と言う人が出てきてしまった。原理主義がそもそもと問い、その正し過ぎる理屈に窮したネズミは理を離れ出そうとしている。でなければ、感情がおさまらないのだ。
 ここにおいて、さらに正しい理屈をふりかざすのは無意味である。なにせ、そのふりかざす理が正しいと思っているのだから、話にはならなくなる。窮鼠の理を無視することで得られる結果は決裂である。

●◯。。。...

 原理は一緒だろうと提示されてしまうからいけない。そこは言わずに、なんとなくや曖昧で扱うべきところなのである。違いを決定的にしないためには、そんな態度も必要ではないだろうか。
 理を尽くして話したところで、残るのはカドばかりということもあろう。もっと「好み」で語ってもいいじゃないか、と、そんな風にも思う。

 

m(_ _)m

 

 

 

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