村上春樹は嫌いだ。と、思っていた。文章がまだるっこしいし、そのうち何を読んでいるのかわからなくなるし、結局どういう話だったのかもピンとこない。読んでいるうちに字面をずーっと追っかけるだけになってしまう。だから、ぼくはハルキストにはなれない。それは今も変わらない。
ただ、この秋ぐらいから村上春樹がたまーにFMでしゃべりはじめていて、「村上RADIO」というその番組は結構好きになった。声はなかなか落ち着いていて雰囲気がある。話す内容も作家らしく、そんなこと考えてんのかいな、と素直に笑えるものだったりした。意外と親しみやすい一面もあるのだなぁ、などと思った。
『翻訳夜話』はそんな村上春樹と翻訳がメインの柴田元幸氏の対談本である。村上春樹は村上春樹と言い切れるのに、柴田元幸は柴田元幸と言い切れずに「氏」をつけたくなる、不思議。それだけ村上春樹のキャラクターが立っているってことだろう。
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対談本であるからには、読みやすい。どちらも翻訳家。片一方は小説も書くし、自分の小説が他の国の言葉に翻訳されもするし、翻訳もする。どちらも翻訳に関しては一家言持っているというか、まぁ、とにもかくにも翻訳好きなのである。おっちゃんたちが自分の趣味について答えも出ないことをぐるぐるとしゃべくりまくっているような感じになった。内容がちょっとマニアックだから、それはそれで聞いていておもしろい。どちらも翻訳家として成功している身なので、その分はズルいなと感じるところもあったけども。
翻訳が意識できるようになると、読書はまたおもしろくなってくる。ぼくは小松太郎訳のケストナーも好きだけど、やっぱり丘沢静也訳信者なところがあって、軽快な、歯切れのよいハコビに憧れているところがある。松江のBOOK在月イベントで亀山郁夫先生の話を聞いたときには、大いに興奮した。だって、ひとつの原文という入力に対して、どうやって日本語に落とし込むか、その出力が何通りも考えられるし、どれもが正解であると言い難いし、明らかな不正解はあるものの、では、どれがどの程度不正解なのかは測ることができないなんて、楽しいではないか。
原文がある。いくつかの翻訳例がある。では、どれがよいか。なぜ、それを選ぶのか。その熟考によって、翻訳は練り込まれていく。意訳すればいいってもんじゃなく、直訳すればいいってもんでもない。他人の作品を引き受ける、その責任感の中で進む覚悟が気持ちいいのだろうなと思う。
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学校教育の中で、作者の気持ちを問うような問題ってのはあったりするけれど、翻訳者の気持ちを問う問題ってのはそうそうないだろう。気持ちというか、苦労とか、苦悩みたいなもんかもしれない。こう書いてよいものか、どうか。
『翻訳夜話』の中には、短編が2つ、村上訳バージョンと柴田訳バージョンで載っている。当たり前だけれど、やっぱり違った作品になる。細部の違いを味わいながら読んでみると、楽しい。その先には、翻訳という沼が待っている。
m(_ _)m