遂にこの記事を書くか、と、重い腰を上げてみた。
僕の基本的な考え方に、「 他者を表現する 」ということがある。要するに、人間は他者から表現されたようになってしまうという考え方である。
おそらく、この考え方は
人 ⇔ 人 の間にだけでなく、
人 ⇔ モノ の間にも成立するのではないか。
そんな仮説を持って半年以上になる。
おそらく、人は、周囲にあるモノに表現され続けているのではないかと思う。
えっと、順を追って説明すると、
1、おそらく、人とモノはコミュニケートしている。
例えば、今、会社で使っているデスクには何の思い入れもないとする。だから、道具としてただ使っていて、最低限の機能さえ満たせれば、どうでもいいと思っている。と、すると、机の方も 「 どうでもいい感 」を出しはじめる。
2、モノは人を表現する(影響する)。
どうでもいい感じで使われた机は、「 どうでもいい感 」を出し、その近くにいる人を「 どうでもいい 」と表現しはじめる。おそらく、それは、机をどうでもいい感じで使っている当人だけに及ぶのではなく、その近くの全ての人に影響する。
3、表現された人は、表現された方向に変化する。
結果として、その机に近づくものは「 どうでもいい 」と表現され、その表現はボディーブローのように響き、じわじわと人に影響する。「 どうでもいい 」と表現された人は尊厳を失ってしまう。
悪い例で説明してしまったが、良い方向にも同じことが言えると思っている。
本当にこんなことが起こっている確証はなく、証明しようもない。ただ、昔つとめたオフィスビルと、今の廃校利用の事務所では、何か感覚が違うように思う。小学校は多くの人にとって思い出の場所であり、オフィスビルは(小規模だったこともあって)機能であった。
こんな所に来てしまったか、という想いがなかったわけではないが、今の事務所が大切に使われてきたことはよくわかってしまうのだ。
大切に作られた記憶、大切に使われた記憶がそこに残り、今も、周囲の人を表現しているのではないか。
誰か、これ、証明してみて欲しい。
最後に、『 自分の仕事をつくる 』のまえがきから引用
「たとえば安売り家具屋の店頭に並ぶ、カラーボックスのような本棚。化粧板の仕上げは側面まで、裏面はベニヤ貼りの彼らは、「裏は見えないからいいでしょ?」というメッセージを、語るともなく語っている。建売住宅の扉は、開け閉めのたびに薄い音を立てながら、それをつくった人たちの「こんなもんでいいでしょ?」という腹のうちを伝える。
<中略>
人間は「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを、つねに探し求めている生き物だと思う。そして、それが足りなくなると、どんどん元気がなくなり、時には精神のバランスを崩してしまう。「こんなものでいい」と思いながらつくられたものは、それを手にする人の存在を否定する。とくに幼児期に、こうした棘に囲まれて育つことは、人の成長にどんなダメージを与えるだろう。大人も同じだ。人々が自分の仕事をとおして、自分たち自身を傷つけ、目に見えないボディーブローを効かせ合うような悪循環が、長く重ねられている気がしてならない。」
この文章を引き合いに出してしまうのが、おこがましくもある。が、なんか、こういうモノや場所や環境に人が与える影響と人に与える影響をもっと分析してみたいなぁ、と考えてたりする。