meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

誰かに届けばいい、というコミュニケーション の、先。

 コミュニケーションモデルが変わりつつあるといわれている。
 
 とある人が、「 5年後ぐらいになったら、 twitter 以前と以後でコミュニケーションが変化したのがわかるんじゃないかな 」という話をしていた。曰く、ブログやその前から考えて、ずーっとコミュニケーションの流れをみていった上で、さらに、これからの展開を予測すると、境目は twitter になるのだそうな。
 
 どう変わるのかを教えてもらえなかったせいで、ここ数日 twitter以前と以後という切れ目を行ったり来たりして考える羽目になった。まったくもって、この地域の支援者は答えを教えてくれない人が多くて困る。考えを表現してくれないと、検討することもできないではないかw
 
 と、いうことで、2010年最後の記事は、コミュニケーションモデルについて。会話や手紙や郵便の話は割愛して、インターネットが出始めたときから考えてみよう。 
 聞いたことのあるまとめ方では、
 
 一対一 ・・・・・・・・ ユニキャスト
 一対多 ・・・・・・・・ マルチキャスト( 一対全部 はブロードキャスト )
 
 というのがある。さらに多対多とか、少対少ってのもあるけど、正直本質的な違いはないと思っている。ありていに言えば、インターネットが出てきたことで、ユニキャストからマルチキャスト(がしやすい環境)に変化した、とはいえそうである。
 
 ただ、ブログをマルチキャストと言ってしまっていいのかどうかには、疑問が残る。そんなに人気があってみられているブログが少ないからだ。
 
 おそらく多くのブログは、エニーキャストに近い。エニーキャストってのは、「 あるグループに投げて、誰かがその情報を受け取ってくれればいい 」というモデルである。誰も受け取ってくれなかったら困るけど、誰か一人が受け取ってくれたら満足をする。インターネットの通信技術の1つなのだが考え方だけをとれば、とてもゆるやかである。
 ブログの場合は、フィードバックはあった方がいいけど、なけりゃないでいい。誰かに読まれているのがわかれば、まぁ、満足。という人が多いのではないか?その中でも、フィードバックが欲しいし、何に向けて発信しているかはっきりさせたい人が、ソーシャルネットワーキングへと向かう。
( ちなみに、意外に any に向けて何かを書くというのは難しい。デジタル世代ならではの技術ではないだろうかと思う。 )
 
 さて、その流れの中に twitter を乗せてみると、もはや、「 特に届かなくてもいい 」という特質に改めて気付かされる。「 つぶやき 」は届くことすら保証されていないコミュニケーションなのである。ここまでいくとコミュニケーションなのかどうかというところも怪しい(笑)
 ここにおいて、コミュニケーションモデルから「 相手 」が消える。その代わり見えてきそうなのは、クラウド化した情報の固まり。会話ともおぼつかない発信が飛び交っている場である。
 
 つぶやきはその場に一石を投じる。 人の目にとまれば、また場に向けて返される。
 多くの発信が集まった場では、会話が乱反射し、その空間を満たす情報となる。多対多のコミュニケーションがひたすら行われたイメージだと思う。
 その情報空間の中で、一対一を見いだしていくのがこれからのコミュニケーションの先であって、DOMOもその流れにのっているんではなかろうか?
 そしてそして、その一対一は、従来の「 ユニキャスト 」ではなくなるはずだ。
 
 最初の話に戻る。twitter の話をしていたある人は、こうも言っていたのだ。
「 だから、僕は twitter はしない理由は5年後ぐらいに見えてくるんじゃないかな 」 と。
 どうにも理解できそうな話でもなさそうだが、気になる気になる話なのだ。
 
 2011年を目前に控えて。