わかりにくいこととか、わかっていないことが好きだ。未知、も
しくはうまく表現されないことに向き合っていると、やきもきも
するし、わくわくもする。それは、そこに自分が入り込む「 余
地 」があるからかもしれないし、何かわからない「 可能性 」
を、ある種無責任に、感じることができるからかもしれない。
どこかで、この世にないものに期待する心があるのかもしれない。
昔、フィンランドに行ったときに驚いたことは、向こうの人も私
たちと同じようにトマトやきゅうりを食べていたことだった。こ
んなに移動してきたのだから、もっと得体のしれないモノを食べ
ているんじゃないかと、どこかで勝手に思っていたらしい。
自分にとっての未知は、そのまま可能性であり、妄想できる範囲
でもある。この妄想が楽しいのかもしれない。仮説と実証を繰り
返し、わからないものがわかっていくことが快感、、、なのでは
ないのかもしれない。むしろわかってしまうことはツマラナくて、
わからないままで、未知に向きあうことを楽しみ続けたいと思う
のかもしれない。
昨日、ブログトップの言葉を差し替えた。そのときどき、ひっか
かった言葉を掲げてみているんだけど、今回のは中でもヒットな
言葉だと思っている。文章の長さの関係でちょっとはしょったの
で、下に引用しておきたかった全文を挙げておこう。
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「内念」というのは何かというと、もやもやと内側から沸き上
がってくるような想いなんですね。閃きといったらよいでしょ
うか。明晰にして判明な概念でしゃべってると眠くなる。つま
り陳腐になるんです。明晰にして判明だけど面白味がない。そ
れは創造的じゃない。もやもやと沸き上がる想いがあって、そ
の想いを明晰にして判明なる概念にして、新しい考えにたどり
着く。
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特に、明晰にして判明な概念、つまり、わかりやすいことっての
は、「 陳腐になる 」ってとこに強く共感してしまった。わか
りにくい感情を、その人が単独で持つ思考を、「 それはつまり
こういうことだよね 」と表現してしまった途端、ぐっと陳腐に、
一般的なものに、ありきたりになってしまった場面を幾度か見て
きたような気がした。そういう編集に違和感があり、「 陳腐 」
と一刀両断にされていたことが痛快だった。
わからなさは何かと何かの間にあったり、どこか遠くにあったり、
小さかったりするから、丁寧にすくいあげないと見えてこないん
だと思う。だからこそ、それをわかろうとするのも、表現するの
も、編集するのも、楽しいんだろう。
わかりきった世界に浸っていると考えたときの作法と、わからな
い世界に生きていく作法は大きく違ってくる。試行錯誤を繰り返
そうと思うこと、ときにおどおどしながら、やわらかく接してい
こうとすること。そーいう草食系な態度(?)がもたらす何かを
追求していきたくもあるなぁ。