meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

「コミュニティ」についての書き散らし。

 
 よく「 無縁社会 」なんて言われているわけですが、そんな実感はまったくもってないわけです。一体何なんでしょうね? 無縁社会って。と、思ってしまうぐらいが僕の実感。だって、コミュニティなんてそこら辺で乱立してるし、( 名古屋だからかな? )朝活あれば、ボランティアあり、サークルみたいなのもあり。親友みたいな付き合いとか、友達ってのがどういう定義かは知らないんだけど、まぁ、それなりのつながりみたいなものが周りにはあるわけです。
 個人的にはコミュニティ過多なぐらいで、それぞれの集まりに行くだけで、予定は全部埋まっていっちゃったりすることも。その辺はIT技術サマサマなところもあって、不精な僕はtwittermixi使わないとキャッチアップできません。
 
 で、一事が万事、たぶん、みんなそうなんじゃないの?とか思ってしまうのは、変ですかね。特に今の若者で、都市部で、コミュニティに困ってる人なんているんでしょうか?なんせよ、みんなtwitterで20人ぐらいとはつながって、ヤンヤヤンヤやってんじゃないだろーか? 2ちゃんねるとかニコ動見て、「 友達いねーよ 」とか書いて、書いてるそのつながり感に満足してるんじゃないだろーか?
 
 前から思ってたんだけど、コミュニティ、あるんじゃないの?
 
 そんな疑問がずっと頭にあるから、コミュニティが崩壊してる論には違和感を感じざるを得なかった。崩壊してるとか、なくなってるとか、そういうことが問題じゃないじゃないの?ってことだ。
 
 それにしても、コミュニティビジネスだとか、コミュニティデザインだとか、どうも、このところの社会課題の中心は「 コミュニティ 」にあるようである。「 自殺者数が多い 」なんて言説もこの問題意識にアドオンされる。ただ、「 問題はコミュニティの減少だ! 」なんて言ってみても、空虚に響くだけなんじゃなかろうか? 何度も書くが、コミュニティ自体はありふれている。と、個人的には思っている。引きこもりの僕にとってみれば、人付き合いがめんどくさくて仕方がないこともある。( だから、引きこもるw )
 
 何とかしなきゃなのは、「 コミュニティからの排除 」なんじゃなかろうか? 2年ほど前に、ソーシャルファイナンス(社会的金融)の定義を「 既存金融から排除されたところへの金融 」ってしてた方がいて、なるほどなぁ、って思ってた。おそらくコミュニティの問題もおんなじだろう。排除があるから、孤立や孤独が生まれる。だから、排除された人の受け皿をつくったりとか、多様を受け止められるようにコミュニティの形を変えていかなきゃならない。
 いやいや、しかしだ。コミュニティそれ自体が、「 内輪 」である。連帯感、つながり感こそがコミュニティの持つ最大の価値である。とするならば、そもそもコミュニティは排他的である。めんどくさい付き合いがあるのがコミュニティではなかろうか? ここで、議論は行きづまる。外に開きたいが、内を壊せない。多様性を認めるが、同じ船に乗る者は選びたい。そんな矛盾感にぶつかる。
 
 
 僕自身は、他人の孤立や孤独をどうにか解決したいと思うほどの余裕があるわけではないので、まぁ、極論、どうでもよい。ただ、コミュニティのめんどくささは勘弁したい。勘弁したいがために、僕がコミュニティの中で生きて行くことはできない。けどけど、おそらく、この社会はコミュニティの中で生きられない人をあんまり許してくれなさそうなので、何とか生きていける環境につくりかえてしまう必要がある。求めるのは、軽やかでいて、孤立しない、欲しい要素を全部満たした贅沢なコミュニティの形だ。
 
 回答は得ていない。だけど、可能性を感じる考え方が2つある。
 「 終わり 」と「 ビオトープ 」だ。
 終わり、ってのは、読んだまま、そのコミュニティを終えることだ。一定期間で、終了する。卒業と言ってもいいかもしれない。続かないことが、大切。妙な慣習や上下関係も、終わりがあればしばらくの辛抱で済む。しかも、わりと同窓会は気持よく参加できるもんで。利害も関係なくなってるし、ある種の共有感があるからね。で、解散するから、散った人たちがまた始めて、そこには新しい人が入る余地ができる。2ちゃんねるの掲示板は1000スレッドで終わるから、新しい人が入りやすい。終わらせるってのも、たまにはいいもんだ。その分、同窓会のつくり方にはひと工夫必要なのかもしれないがw
 
 そんで、ビオトープ。コミュニティとの違いは前に書いた。つまりは、渡り歩くことができる環境、ってことだ。居つかなくていい。こっちにしばらくいて、楽しくて、でも、ちょっとイマイチになってきたから、あっちに行って。これもひとつ、アリな方法だと思う。終わらせて、コミュニティ自体をリセットするんじゃなくて、渡ることで、自分レベルでリセットをかける。ついでに、渡れば渡るほど、情報やノウハウも伝播していく。渡り歩く人たちが、渡れるように、回廊をつくっておく。その周りには、渡りを迎えられるコミュニティが並ぶ。
 渡りを許すということは、余白があるってこと。外部から飛び込める。そんで、また、飛び立てる。
 ビオトープ的なものは、名古屋にできてるのかもね。東京にはかなわないんだろうけど。
 
 さてさて、一所懸命、ひとつの土地に覚悟を決めてやり通す日本人にすると、こんな渡って、終わらせて。転石苔生さずも甚だしい、と怒られるかもしれない。めんどくさいことは嫌だ、とか、無責任かもしれない。コミュニティ嫌いな個々人をもっと教育して、社会人基礎力的な何かを身につけさせて、国民皆コミュニティ化させてしまえばいいのかもしれない。
 結局のところ、ただ単に、僕がそういうのを好まないだけだろう。主流に入れない、入りたくない弱さや哀しさ、寂しさや哀愁が美しいと感じてしまうんだから、仕方がない。強さに憧れ、強くなれないことに意味があると思ってしまう。
 
 この文自体も、そんな人間の戯言なんだろうなぁ (゜_゜)
 

 

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

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