meta.kimura

感情の率直と、思索の明澄と、語と文との簡潔とです。

能力に依存することとか、標準化することとか、その危険性とか


  「 能力なんて、人間から代替可能性を抽出したようなものだなぁ 」

  今朝はそんなことを考えながらの出勤だった。どうにも、世の中が能力主義成果主義に飲み込まれて
 いるようで気持ちが悪い。いや、それらの主義自体を否定するわけではない。能力や成果といった尺度を
 用いないと、効率化がなされていかないのもひとつの真実だ。けども、どうにも「 能力 」がはびこり
 過ぎているような気がしてしまっている。能力ってのは、人間の1側面でしかないってことを忘れてしま
 うのは危険だろう。自分のアイデンティティみたいなもんや、存在価値、存在意義みたいなもんを能力に
 帰するべきでは、たぶん、ない。自分は誰かに価値を提供する商品であって、サービスであるけども、そ
 れ以外の何かを感じていた方がよい気がするのではないか。

  冒頭に掲げておいてなんだが、能力は、厳密には代替可能でない。RPGみたくステータスが数値化さ
 れてるわけじゃないので、個々の能力はオリジナルなハズである。Aさんにしかできない仕事もあれば、
 Bさんにしかできない仕事もある、というのが本来の姿だろう。この状態にあるとき、AさんやBさんは
 自分のオリジナル性に尊厳をもつ。自分の能力に価値を感じ、その能力を持つ自分にも価値を感じる。存
 在の根拠を能力に求められるので、ある意味、わかりやすく自己を認められるのではないだろうか。
  但し、企業経営の視点から見れば、AさんとBさんが代替可能でないというのは、非常に大きなリスク
 でしかない。企業にはゴーイング・コンサーンってルールがある。僕自身はこのルール自体に疑問を持っ
 てるんだけども、それはとにかく、企業は自社のサービスを継続して提供し続けていくっていう前提に則
 って運営される。今日あった商品が明日ない、では、お客さんが困ってしまうというのだ。こいつがある
 ために、経営は標準化を求める。Aさんが提供しても、Bさんが提供しても、それほど大差ないようにな
 るように、仕組みをつくろうとする。マニュアルをつくり、尺度をつくり、能力をパッケージングしてい
 く。パッケージになれば、Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、、、といろいろな人材を一括統制して扱え
 るし、誰かがいなくなったときの対応もできる。これは、経営上正しい。

  ここに、個人と企業とのジレンマが生まれる。個人は自己同一性を求める。基本的には自分を認めても
 らいたい。尊厳が必要である。一方で、企業は能力の標準化を求める。誰がどうなっても、お客にサービ
 スを提供したい。お客に価値を産み続けることが企業の尊厳を支える。だから、企業は従業員に対して
 「 代替可能であれ 」と言う。自分の価値を能力にのみ帰している場合、この言葉は「 あなたは誰で
 もいいのよ 」というメッセージとイコールである。暗に放たれたメッセージは、明示されているメッセ
 ージよりも性質が悪い。ジャブのように、響いてくるからだ。知らないうちに侵食してくる。
  内田樹さんが『 街場のメディア論 』でこんなことを書いている。

  ネット上に氾濫する口汚い罵倒の言葉はその典型です。僕はそういう剣呑なところにはできるだけ
 足を踏み入れないようにしているのですけれど、たまに調べ物の関係で、不用意に入り込んでしまう
 ことがあります。そこで行き交う言葉の特徴は、「個体識別できない」ということです。「名無し」
 というのが、2ちゃんねるでよく用いられている名乗りですけど、これは「固有名詞を持たない人間」
 という意味です。ですから、「名無し」が語っている言葉とは「その発言に最終的に責任を取る個人
 がいない言葉」ということになる。
  僕はそれはたいへん危険なことだと思います。攻撃的な言葉が標的にされた人を傷つけるからだけ
 ではなく、そのような言葉は、発信している人自身を損なうからです。だって、その人は「私が存在
 しなくなっても誰も困らない」ということを堂々と公言しているからです。「私は個体識別ができな
 い人間であり、いくらでも代替者がいる人間である」というのは「だから、私は存在する必要のない
 人間である」という結論をコロラリーとして導いてしまう。
  そのような名乗りを繰り返しているうちに、その「呪い」は弱い酸のようにその発信者の存在根拠
 を溶かしてゆきます。自分に向けた「呪い」の毒性を現代人はあまりに軽んじていますけれど、その
 ような呪詛を自分に向けているうちに、人間の生命力は確実に衰微してゆくのです。「呪い」の力を
 侮ってはいけません。

  人材流動化の時代になって久しい。中途採用の度量衡は能力である。能力に覆われ、衰微した結果がこ
 れなのかもしれないなぁ、と思ってしまう。前に「 ヒトを買う時代へ 」なんて書いたけども、これが
 能力をやり取りするもんだと勘違いされないように願いたい。やり取りをしながら、関係を紡いでいくこ
 とに、意味とか価値があるんだと考えて欲しい。

  たぶん、これは経営にも言える。能力や成果の尺度は必要である。そこに、もうひとつ「 関係 」を
 加えていくことができればいい。尊厳は関係によって育まれるんじゃないだろうか、とか思うのだ。コミ
 ュニケーションによって、その人の唯一性を担保する、って言い換えてしまってもいい。ちょっと冷たい
 言い方かもしれないが。
  その上で、サービスの標準化にも一工夫できそうな気はする。ちょっと具体的なイメージは湧かないけ
 ども「 スケールアウト型の標準化 」ができればいい。マクドナルドのマニュアルではなくて、理念浸
 透と個々人での柔軟性を認めたもの。そういうのがリッツカールトンのクレドなのかもしれない。
  企業は理念体みたいなもんだから、理念とある程度の型さえ広められれば、あとは個人が守・破・離を
 勝手にしていってくれるハズだ。そこは積極的に認めていけばいいんだろうし、そのとき初めて、本当の
 意味での能力ってものが出てくるような気がする。



  能力に還元するのは、単純でわかりやすい。そこに落とし穴がある。シンプルは力強いが、力強さは何
 かを蹂躙する可能性がある。そんなことを意識のどこかに置いて、能力って言葉を使っていく方がよいよ
 うに思えるのだ。 

  

m(_ _)m